佐々木弘綱

佐々木弘綱歌人・国文学者として大きい足跡を残した佐佐木信綱は、明治5年(1872) 6月3日、鈴鹿市石薬師町で生まれた。
信綱の父・佐々木弘綱は、文政11年(1828)、伊勢国鈴鹿郡石薬師駅(現鈴鹿市石薬師町)に生れた。父を徳綱、母を鳰子という。
幼時より学問を好む。14歳ではじめて歌を学び、19歳で伊勢山田足代弘訓の門に入り、留学すること数年、足代翁の死後、江戸に出て歌学を井上文雄に学ぶ。帰郷後、石薬師代官多羅尾純門の師となり、また津の藩主藤堂高猷に歌文を講ずる。

維新の後諸国を歴遊し、明治10年松阪に住居を移し鈴屋社の衰頽を振起した。
明治15年住居を東京に移し、東京大学文学部古典科、東京師範学校の講師となった。
明治18年冬、病のために講師を辞し著述と門弟の指導に専心した。
明治25年(1891)5月、病勢強まるも日々筆を放さなかったが、終に6月25日に没した。享年64。
弘綱には1女あり、景子という、早世する。
2男あり、信綱昌綱という、信綱家を嗣ぐ。 弘綱、幼名を習之助時綱と呼び、後に足代翁より名の1字をもらい、弘綱と改める。号を竹柏園。
梛の木が庭にあったので名付けたという。
詠じた長短歌今様、およそ六万首、文章二百数十編、著書百余巻である。

刊行された著作

自作歌集

●竹柏園歌集 (生涯に六万首を詠んだともいわれるが生前に刊行された歌集はない。
 明治33年刊行の続日本歌学全書第12冊に収められた上記家集がその唯一のものである。)

撰集

●千船集 六冊
●明治開化和歌集 二冊
●千代田歌集 二冊
●宝田集 二冊
●月瀬梅風集 一冊

各種俚諺解

●伊勢物語俚諺解 二冊
●竹取物語俚諺解 二冊
●土佐日記俚諺解 二冊
●標注枕草子   五冊

歌学関係の著作

●歌詞遠鏡 四冊
●歌文要語解 一冊
●仮字格枕詞字典 一冊
●詠歌自在 六冊
●雅言小解  一冊
●活語全図 一帙
●新題梯  一冊
●歌学全書 十二冊

紀行文

●位山日記 一冊
●加越日記 一冊

その他

●月並歌合 十二冊
●睦舎歌合 十冊
●三吉野帖 一帖

多才で広い趣味

書道 篆刻 水墨画 一絃琴 浄瑠璃 囲碁 魚捕り

幅広い交友

福羽美静 高崎正風 松平春嶽 東久世通禧 藤堂高猷 斎藤拙堂

近年の弘綱研究・顕彰

佐々木弘綱年譜 上中下巻 皇學館大学 髙倉一紀・龍泉寺由佳編著
竹柏園随筆 解説・髙倉一紀
石薬師のお師匠さま――佐々木弘綱翁のおもかげ 鈴鹿市教育委員会
加越日記 解説・佐佐木由幾
竹柏園姓名録 坂倉賢芳編著
明治開化和歌集(抄)と伝統和歌群 坂倉賢芳編著
佐々木弘綱伝 文・北川英昭 絵・渡部明美
佐々木弘綱の世界――幕末から維新期の歌人・歌学派国学者 北川英昭著
再編竹柏園姓名録 坂倉賢芳著

弘綱略年譜

西暦 数え年 ことがら
1828
文政11年
1歳 徳綱の三男として7月16日伊勢国鈴鹿郡石薬師で誕生。幼名習之助時綱。
1833
天保4年
6歳 初めて習字を学び、父から大学の素読を授けられる。
1834
天保5年
7歳 父徳綱死去。以後母一人に育てられる。
1841
天保12年
14歳 名古屋の伯父庸綱に寄宿。梶原昭豊から作歌の指導を受ける。
1843
天保14年
16歳 名古屋において書道大師流を学ぶ。
1844
弘化元年
17歳 一年間に千首の歌を詠じ、歌集「十七歳千首」としてまとめる。
1845
弘化2年
18歳 最初の和歌入門書『雅言俗解』を著す。
1847
弘化4年
20歳 伊勢山田の足代弘訓寛居塾に入門。
1849
嘉永2年
22歳 師の名の一字を与えられ、時綱を弘綱と改名。
1851
嘉永4年
24歳 寛居塾の塾頭となる。
1852
嘉永5年
25歳 師足代弘訓に代わり尾張知多郡内海へ教授のため出張する。
1854
安政元年
27歳 石薬師の園田須磨子と結婚。
1855
安政2年
28歳 長女景子誕生。
1856
安政3年
29歳 『源氏物語俚言解(桐壺・帚木・空蝉)』を著す。恩師足代弘訓が死去。
1857
安政4年
30歳 1月『活語全図』を刊行。江戸へ出て井上文雄に学ぶ。『竹取物語俚言解』を刊行。
1858
安政5年
31歳 江戸から帰り、伊勢各地・関西各地や尾張知多郡を遊歴。
1859
安政6年
32歳 信楽代官多羅尾純門に召される。石薬師竹柏園歌会が始まる。
1860
文久元年
34歳 『類題千船集第一編』を刊行。津藩主藤堂高猷に召される。
1863
文久3年
36歳 四日市、亀山、関等に竹柏園の支社が結成される。
1870
明治3年
43歳 妻須磨子死去。鈴鹿市神戸の岡本光子と再婚。
1872
明治5年
45歳 飛騨路「位山日記の旅」に出る。長男・信綱が誕生。
1877
明治10年
50歳 松阪の鈴屋歌会からの要請により松阪に転居。
1880
明治13年
53歳 信綱と「加越日記の旅」に出る。『明治開化和歌集』を刊行。
1881
明治15年
55歳 信綱と上京し東京に永住を決意。東京大学講師に就任。
1884
明治17年
57歳 東京師範学校講師に就任。信綱、最年少13歳で東京大学入学。
1885
明治18年
58歳 冬、病を得て講師の職を辞し、民間の歌道弘布と著述に専念。
1888
明治21年
61歳 長歌改良論を発表し論争する。信綱、東京大学を卒業。
1890
明治23年
63歳 『千代田歌集一編二編』『日本歌学全書第一冊』を刊行。
1891
明治24年
64歳 『宝田集』を刊行。師の『足代弘訓翁家集』を刊行。6月25日死去。東京谷中の墓地に葬る。
1908
明治41年
淨福寺(鈴鹿市石薬師町)に弘綱の記念碑が建立され、以後毎年「碑前祭」が行われ、信綱が亡くなるまで続いた。