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今月の短歌 5月「アサヒグラフに載った新村出の写真に寄せて」

吾はもよよき画をみたりをち水に笑める博士のよき画をみたり

佐佐木信綱『佐新書簡』

 『佐新書簡』に、おもしろい歌が載っていた。昭和23年5月30日付の新村出への葉書である。
「看アサヒグラフ五月19号有感」と断り書きがあるから、アサヒグラフに新村博士の写真が掲載されたのであろう。それを見て、冷やかし半分に戯れ歌を詠んだのであろう。信綱の茶目っ気と、二人の親密さを表すものとして興味深い。
 この歌は万葉集にある「我はもや安見児得たり皆人の得かてにすといふ安見児得たり」という歌を下敷きにしていると思われる。「私は何と、安見児を我がものにした。皆誰もが手に入れられないという安見児を我がものにしたのだ」。安見児とは、奈良時代の采女で、この歌の作者藤原鎌足が天智天皇から下賜された女性である。このおおらかな喜びの歌に重ねて、「私は何と!よい写真を見ましたよ。変若水(をちみず)に向かって笑っている新村博士のよい写真を見ましたよ」と詠んだである。
 では、どんな写真であったのか。下に、昭和23年のアサヒグラフに載った写真を転載したので、参照されたい。「南ばんの名残」という見開き2ページの企画で、「企画・構成・記事 文学博士 新村出氏」とある。10葉の写真は京都を中心としたキリシタンゆかりの写真で、記事によれば、「今年は、ザベリオ聖人が1549年に南蛮船で渡来してから正に四百年になる」と始まり、「われらのポント町は南蛮語であり、吉利支丹との縁が尽きない。サンタマリア」で終わっている。写真はポント町を行きずり(?)の和装の若い女性と歩くにこやかな新村氏である。歌の中の「をち水」とは「変若水」と書き、若返りの霊水という意味だ。信綱の歌の意味も納得、読むほうもニンマリとしてしまう。この葉書の宛名、署名がまた振るっている。「藤原駿河麿大人記室  源伊豆麿」
 新村は、22歳の時に父関口隆吉が事故死し、新村猛雄の養子となって静岡尋常中学を出たから、それで「駿河麿」なのだろう。「大人」は敬称で、「記室」は気付に同じである。一方、信綱は佐々木盛綱の子孫と名乗っているから、源氏であり、熱海に住しているから「伊豆麿」であるわけだ。新村が「藤原」なのはよくわからない。


短歌鑑賞:森谷佳子