月かけも花も一つにみゆる夜は大空をさへ折らむとそおもふ
紀貫之 寸松庵色紙
5月に引き続き『佐新書簡』から引いた。昭和21年6月29日付の書簡に、「近来の大いなる喜は過日寸松庵色紙のつらゆき」に続き、掲出の歌が挙げられている。つまり、最近の大きな喜びは、貫之の色紙の歌を発見したこと、というのである。さらに「勅撰集 夫木抄 貫之集にはみえぬ歌のやうに候」と書く。勅撰集、つまり「古今和歌集」にも、鎌倉後期に成立した私撰和歌集「夫木集」にも「貫之集」にも見えない歌のようである、と。さらに「あまりに喜はしく物にかゝむかと存し居候 万一右の歌につき何にかのりゐ候事御承知に候はゝ御しらせいたゝき度候」。あまりに嬉しくて、何かに書こうと思っているが、万一この歌について何かに載っていることをご存じでしたらお知らせいただきたい」と。
まず信綱の喜びようが、子どもが何か素敵なおもちゃでも貰った時のように手放しなのがいい。そして親友の新村に、何か知っていることがあったら教えてほしい、というのである。新村がどんな返事を書いたのか、そして信綱が何かの本か雑誌にこの歌のことを書いたのかどうか知りたいところだが、今のところ調べがついていない。ちなみに、この歌は定家が書写した『古今和歌集』には載っていないが、いわゆる異本の元永本に載っているらしい。
この歌が書かれていた寸松庵色紙というのは、三色紙と呼ばれる名高い名筆の一つであり、大徳寺境内の茶室寸松庵に伝わったことから、そう呼ばれる。筆者はわかっていない。現在ネット上でもこの色紙は見られる。いろいろな漢字が当てられて、不思議な訳も載っていて、おかしい。
信綱が喜んだのは、今まで知らなかった貫之の歌を発見したことに加え、この歌の意味の貫之らしい面白さもあっただろうと思う。一般に貫之の歌は理屈が勝って、情趣に掛けるという評がある。それで正岡子規などは貫之の歌をこき下ろしている。この歌は、その貫之の面目躍如というような類の歌なのである。その歌を漢字交じりに書き直すと、
月影も花も一つに見ゆる夜は大空をさへ折らむとぞ思ふ
意味は、月の光も桜の花も一つに重なって見える夜は、その大空までも桜の花といっしょに折り取ろうと思ってしまう、くらいだろう。つまり月の明るい夜に見上げると桜の花が美しい。月の光に照らされた空も花も一体となっているので、花を折り取ろうとして大空までも折り取ってしまいそうだ、というのである。大空を折り取るなどあまりに非現実的で、表現が大げさすぎて情趣のある歌とはとても思えないけれども、何ともダイナミックで楽しい歌ではないか。信綱はきっとそんな歌が好きだっただろうと、私は思う。
短歌鑑賞:森谷佳子