佐佐木信綱『佐佐木信綱 作歌八十二年』
明治35年、31歳の8月に信綱は二人の大学生とともに強力を伴い、富士登山をした。一合目からである。四合目で一泊した。そこではお風呂にも浸かり、強力に持たせてきた「麦酒」をふるまい、自身も飲んだ。八合目では「大丈夫、頂上までは行かれます」と信綱は言ったが、今夜はここで泊って月を見るのです、と言われて泊った。優雅な登山である。さて、月が出て、信綱は歌を詠んだ。その中の一首が掲出歌である。
わかりやすい歌である。形容詞が何と4つも詠みこまれていて、形容詞だけで16音である。現在、私たちは、短歌には形容詞をあまり使わない方がよいと思っている。佐佐木幸綱氏の近刊『知識ゼロからの短歌入門』にも「短歌では、たとえば形容詞の「美しい」や形容動詞の「きれいだ」という言葉を使わずに、その様子を詠みます」(P128)と書かれている。また『佐佐木幸綱 短歌に親しむ』には、第一章の見出しの一つに「具体的に、細部を」とあって、現代短歌の作り方が端的に述べられている。
子どもたちの短歌指導の時も「楽しい」「うれしい」「おもしろい」などは使わないで、目に見えるように具体的に情景を詠んでください、などと私は言っている。子どもたちは当然ながら形容詞を使いたがる。自分の感動を最も直接的に表現できるからだ。でも、それじゃおもしろくない。読み手はああそうか、で終わってしまう、ということだろう。そういう現代短歌の観点からすると、信綱のこの歌などはよくない歌の例であろう。(信綱の歌を子どもの歌と同列に批評するとはけしからん、と叱られそうであるが)「うるわしく」ってどんなふうに?「悲しき」ってなぜ? などと問い返したくなってしまう。でも、当時の「現代短歌」のとらえ方はまた違っていたであろうし、詠み方も違ったであろう。
富士山の八合目の月を見て感動した信綱は、まずそうとしか詠えなかったのだろう。もちろんこの形容詞ばかりの短歌は、連作というか、同じ時に詠んだ多くの歌の一つであり、この歌だけを取り出して云々するのはよくないのであるが。そう思いながら富士八合目の月を想像している。
芭蕉の句「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」を思い出してしまった。こちらは17音のうちで9音が形容詞だ。
短歌鑑賞:森谷佳子
雪を頂いた富士山