影うつす はつかり見れハ紙屋河 すき入れニける こゝちこそすれ
斎藤緑雨の信綱宛の書簡に見える弘綱の屏風歌
今月は信綱の父、弘綱の歌である。昭和62年より鈴鹿市長を務めた衣斐謙譲氏に『含羞の歌人 村田邦夫と鈴鹿文化』という小冊子がある。村田邦夫は、信綱晩年の秘書として、昭和25年の信綱最後の里帰りに同行して初めて鈴鹿の地を踏み、信綱没後、信綱資料館が開設されると、資料の収集や整理のためにたびたび鈴鹿に足を運び、「鈴鹿詣で」と呼ばれた。
その衣斐氏の小冊子に信綱と斎藤緑雨の交流のことが書かれている。緑雨は、信綱より5年早く鈴鹿に生まれ、10歳で上京し、批評家として明治文壇の鬼才と謳われたが、37歳で世を去った。樋口一葉を世に出した人としても知られる。信綱と緑雨とは森鴎外の家「観潮楼」で度々会い、知り合いになっている、と冊子に書かれている。「観潮楼」は、文京区にあった森鴎外の自宅で、明治40年から「観潮楼歌会」が開かれたことで有名であるが、その時すでに緑雨は亡くなっているから、それ以前のことである。
信綱との間には何通も手紙が交わされて、「かなりの交流があったことが伺われる」と衣斐氏は書いている。その手紙の中に、緑雨が「父の遺した屏風を開いたら尊大人の『影うつす はつかり見れハ紙屋河 すき入れニける こゝちこそすれ』という歌があった」と書いているという。緑雨が亡くなったのは、明治37年、そのとき信綱は31歳であったから、屏風の歌は、父弘綱の歌であったろう。ちなみに緑雨の父は、津藩の医師であったから、弘綱と交流があっても不思議ではない。
紙屋川は、京都鷹峯に源を発し京都市街の西部を流れている川で、平安時代にはこの川のほとりに紙屋院が置かれ、紙師が住んで、さまざまな料紙が漉かれていたのでこの名があるという。掲出歌は「紙屋川」を主題にして初雁の姿を詠み、空を渡って来る初雁の姿が紙屋川に映り、まるで紙に漉き込んだよう見えると詠んだのである。趣向の凝らされた古典的な歌である。川面に紅葉が浮かび流れるのを紅葉の錦、桜の花が散れば花筏と言い慣わすが、それと趣向の似た、それより渋い図柄である。屏風には初雁の絵が添えられていたであろうか。
短歌鑑賞:森谷佳子