ゆのさとの初春の日のうららけさはねつくおとにましる琴のね
佐佐木信綱『佐新書簡』より
『佐新書簡』は、佐佐木信綱の新村出に宛てた書簡集である。その1913年 大正二年の項の「27封書 消印 2.1.13」とある書簡にみえる歌である。文面は次のように始まる。( )内は森谷注。
くれの雪御地はいかゝ、東京は未(まだ)庭にのこりをり候 三日より十日まであたみ辺こゝかしこまゐりゐ候 梅三四分のさかりにて大湯のわくおとものとか(のどか)に候
そのあとに掲出の歌が書かれている。「くれの雪御地はいかゝ」とあるから、暮に東京ばかりでなく、新村出の住む京都にも雪が降ったのであろう。そして信綱は年を越して三日から十日までを熱海で過ごしたのだ。晩年には熱海に住んだが、このときは西片町に住んでいて、正月を熱海で過ごしたのである。 初句の「ゆのさと」は、したがって熱海のことであり、うららかな日に羽根を突く音がして琴の音も混じるといういかにも日本の春らしい風情が詠まれている。
この封書の前には、大正元年の「消印 1.9.17」の封書があり、それには「乃木大将の事十四日朝の新聞をよみおどろき申候」と書かれている。その同じ書簡に「梁塵秘抄」のこと、「業平年譜」のことなども書かれていて、古典籍を研究する者同士の学問上の情報交換などをしている。二人は、学問の友でもあり、心の友でもあった。
掲出歌の書かれたかなり長い書簡の後には1週間も経ずに、「昨年の雪未とけす寒さたえかたく候」と始まる葉書を送っている。信綱の葉書には「寒さたへかたく(耐えがたく)」とう言葉がよく出てきて、信綱は寒がりであったようである。
新村出は、信綱より4歳遅れて生まれ、信綱の亡くなった4年後に亡くなっている。終生の友であった。令和3年12月の、今月の短歌「新村出の信綱への弔歌」を併せて読んでいただければ幸いである。
短歌鑑賞:森谷佳子