夕されば山霧おりてかや原の萱のなびきの音かそけしも
佐佐木信綱『常盤木』
大正4年秋、信綱44歳、箱根を訪れたときの連作の中の一首である。この歌から思い起こされるのは、百人一首でよく知られた次の歌である。
夕されば門田の稲葉おとずれて蘆のまろ屋に秋風ぞ吹く (源経信)
語句としては、初句の「夕されば」、つまり「夕方になると」というところが共通するだけであるが、どちらの歌も秋風が吹くときに立てる葉擦れの音を主題としている。
信綱の歌の意味は、夕方になると、山霧が下りてきて、麓の「かや=萱(薄)」原が山霧を下ろした風になびいて立てる音がかすかに聞こえる、というのであり、動きのある大きな自然の景を詠んでいる。経信の歌の方は、「門田」つまり、家の前にある田んぼの稲が「おとずれて」つまり、そよそよと音を立てて、蘆で葺いた粗末な家に秋風が吹くという、鄙びた里の風景である。
また、「万葉集」中の、大伴家持の次の歌もある。
わが屋戸のいささ群竹ふく風の音のかそけきこの夕かも
こちらは「群竹」に吹く風の音であり、その音の「かそけき」とは、信綱の掲出歌の「かそけし」と同じ表現である。
風が立てる音、というのは、昔から歌に多く詠まれている。日本人は風に敏感だったのであろう。「古今集」の立秋の歌に、
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(藤原敏行)
という歌がある。目にははっきりと見えないけれど、風の音に、ああ秋が来たのだなあ、と気づかされるというのだ。風は季節を感じとる幽かな調べであるのだ。
夏には早苗をそよがす風が吹き、秋には稲穂をうねらす風が吹く。春の草原、秋の薄野、どれも風がその風景に動きと音を添える。これら四首の歌を読むと、時代を経て日本の原風景が見える気がする。
写真は、奈良県の曽爾高原の薄の原である。(短歌鑑賞:森谷佳子)