今の世の美しきものアルミナの回転機の雪と清女は書かむ
佐佐木信綱『佐佐木信綱 作歌八十二年』
『作歌八十二年』の昭和18年3月の条に、「蒲原及び三保なる軽金属会社にものした」とあり、この歌がある。そのすぐ後には、「清水船渠会社にて」と詞書のある歌も載っている。三保・清水といえば、三保の松原があるが、その風景を詠んだ歌は載っていない。もっとも1月にも清水に来ていて、そのときは日本平からの富士を詠んでいる。(ちなみに、その時の歌は「下つ半(なから)おほへる雲の上に立たし天つ峯なり神富士が嶺は」)3月の清水訪問は、清水市の港祭に門弟から招かれ、その経営する会社を見学した、と秘書の村田邦夫氏が書いている(『短歌入門』)。その門弟の経営する会社は「清水船渠会社」であるが、「蒲原及び三保なる軽金属会社」にも立ち寄って見学したのであろう。こちらは、現在の日本軽金属(株)の蒲原工場と清水工場であろうと思われる。
さて、掲出歌の意味であるが、「アルミナの回転機」とは、アルミナを焼成するのに使われる回転式の窯であるらしい。「清女」とは清少納言のことであるから、清少納言が今の世に生きてあれば、美しいものはアルミナの回転機の雪だと書くだろう、ということである。
では、「回転機の雪」とは何か。これはこの歌だけでは理解しがたい。その前の二首の歌を見よう。
濛々と白きアルミナの煙まひおぼろなり工員のたくましき顔も
はしきかもまろがりおつる清き雪掌(て)にすくひみれば暖かき雪
ということで、「雪」とは、アルミナの回転機から濛々と舞う煙、転がり落ちる美しい清らかな「雪」、そして、手にすくってみれば「暖かき雪」なのである。時代の最先端の工業の生み出したこのアルミナの雪こそは、繊細にして斬新な感覚を持つ清少納言の審美眼にかなうものであろうという信綱の思い入れである。
ところで、清少納言は、「うつくしきもの」をどう表現しているだろうか。「枕草子」の151段、「うつくしきもの」は、「瓜にかきたるちごの顔。雀の子の、ねず鳴きするにをどり来る。…」と続き、最後は「なにもなにも、小さきものはみなうつくし」で終わる。「うつくしき」は古語では「愛らしい」という意味だから、こうなる。ちなみに、「雪」の出て来る章段を見ると、「にげなきもの。下衆の家に雪の降りたる。また、月のさし入りたるもくちをし」(45段)などとあって、身分の低い者のみすぼらしい家には雪も月も似合わないと、なかなか辛辣である。「雪は、檜皮葺(ひはだぶき)、いとめでたし。すこし消えがたになりたるほど。またいと多うも降らぬが、瓦の目ごとに入りて、黒うまろに見えたる、いとをかし」(251段)と、この段は繊細な描写で独特の好みを目に見えるように表現している。さすが、目の付けどころがいい、と言いたくなるような文である。
写真は、アルミナを焼成する前の水酸化アルミニウムである。まさに、化学の「雪」であり、信綱が感嘆した「アルミナの雪」が想像できるであろう。清少納言もこの新しい嘱目には感嘆したに違いない。 (短歌鑑賞:森谷佳子)