ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲
ゆく秋の雲は浮かびぬ陵(みささき)の山の木立をめぐれる池に
秋寒き薬師寺の道うすき日はついぢの上の雑草にさす
佐佐木信綱『新月』『佐佐木信綱 作歌八十二年』
これら三首の歌は、明治41年、信綱36歳の秋に大和を巡った時の歌と考えられる。二首目と三首目は『佐佐木信綱 作歌八十二年』に載っている。(二首目「ゆく秋の」は、『八十二年』では「行く秋の」となっているが、ここは『全歌集』に従った)この二首は、『新月』の最後の方の「大和巡り」と題されたところに載っているが、最も人口に膾炙している一首目の「塔の上なる」の歌だけは、初めの方に題詞はなく載せられている。また『作歌八十二年』の明治41年の項には、「大和を巡った」時の歌として、「塔の上なる」でなく、「陵の」の方が載せられている。どちらも大和の「雲」を詠んだ歌である。三首目の薬師寺の歌は『新月』にはなく、似た歌として「秋さむき唐招提寺の鴟尾(しび)の上に夕日うすれて山鳩の鳴く」が載っている。唐招提寺と薬師寺は南北に隣り合っている。
さて、掲出の三首は、「ゆく秋の」と「雲」でつながり、さらに「薬師寺」につながっている。これらの歌は、薬師寺あたり、西ノ京で詠まれたものと考えられる。
「ゆく秋の」の「ゆく」とは季節の移り行くことであるが、信綱のこの時の大和巡りを思うと、「秋に(大和を)ゆく」の意味も含まれているような気がする。つまり、信綱は大和を巡行する客であり、その客を大和のおだやかな風景が迎えているのだ。雲が薬師寺の塔の上に浮かび、「ついぢ」(築土、土塀)には夕光に照らされて雑草が見える。「陵の山の木立をめぐれる池」の雲は、池の上の空に浮かんでいる雲かもしれないし、池の水面に映った雲であるかもしれない。陵とは、薬師寺からほど近い垂仁天皇陵であろうか。豊かな濠の水が美しい陵である。三首によって、深まる秋の西ノ京を感じることができるだろう。
ちなみに有名な一首目の薬師寺の歌は、昭和30年に歌碑が薬師寺に建立され、5月30日に除幕式が盛大に行われた。83歳の信綱は、5月24日に熱海を出て、豊橋、大阪を歴訪して、京都に入り、各地の竹柏会支部の歌会に出席したり、旧知の人々と会ったり、精力的に活動しながら、28日に薬師寺からの迎えで奈良に入り、奈良女子大で講演し、夕方歓迎晩さん会に出席し、翌日の除幕式に臨む。歌を詠んでから、47年後のことである。『作歌八十二年』から引用する。
まだ見ぬおのが歌碑は、かの三層の宝刹の下、菩提樹の青葉蔭に、とは聞いていたが、今は紅白の幕をめぐらされている。(中略)たまたま一旅人として、明治の末年頃におとずれ、晩秋の日に思いを寄せた諷詠が、かく久遠に遺るということは、夢のような心地がする。
瑞々し菩提樹の蔭にわが歌の石ぶみは建てりよき處得て
(短歌鑑賞:森谷佳子)