もやしろし老杉がもと吾が憶良狭野のをとめと語りつつや来る
佐佐木信綱『佐佐木信綱 作歌八十二年』
この歌は、信綱の自伝『作歌八十二年』の昭和8年11月、62歳の項に「大和懐古作」という題詞で載っている。全集には載っていない。
「靄が白く立ち込めている。その老杉のあたりから吾が敬愛する憶良が狭野のをとめと話しながらやって来るではないか」とでも訳せようか。「狭野のをとめ」とは、狹野弟上(おとかみ)娘子(をとめ)、または狹野茅上(ちがみ)娘子とも言う。天平12年、罪を得て越前国に流罪となった新婚の夫、中臣宅守との間に多くの相聞歌を残している。その中でも特に有名な歌は、
君が行く道の長手を繰りたたね焼き滅ぼさむ天(あめ)の火もがも
あなたが流されてゆく長い道を手繰り寄せ畳んで焼き滅ぼす天の火がほしい(そうすればあなたは行かなくてもすむから)、という意味である。この歌をはじめとして、二人の相聞歌は60首まとまって万葉集に載せられていて、そのうち23首が狭野娘子の歌である。異例のまとまった歌群であり、まるで歌物語のようであると言われる。当時この事件は有名であったという。中臣宅守が、蔵部の女孺という官女であった狭野娘子を娶(めと)ったことで罰されたともいう。
この情熱的な女性歌人と憶良とは生きた時代がずれるので、憶良が「狭野のをとめ」と語りながらやって来るということはあり得ない。信綱の幻想の歌の中のフィクションであるというべきか。なぜこの二人なのか。憶良は万葉歌人の中でとりわけ信綱が愛着を抱いている歌人であった。以前にも「今月の短歌」で紹介したが、次のような歌もある。
梅花の宴憶良の大夫が下つ座(くら)に佐氏(さし)信綱のまじり得ばと思ふ 『瀬の音』
我が行くは憶良の家にあらじかとふと思ひけり春日の月夜 『新月』
古への憶良の臣の歎きの歌われはた病みて歎きを共にす 『老松』
一首目は、梅花の宴会(おそらくは太宰府での)で、憶良の下座に信綱が混じることができればと思う、という意味。二首目は、私が行くのは憶良の家ではないだろうかと思ったことだ、春の月夜に。三首目、昔の憶良の病苦の歎きの歌と、私もまた病んで歎きを共にすることだ。
憶良の生きた時代に自分を置いてみる、憶良と共にいる自身を想像する、病む憶良と歎きを共にする、という歌で、憶良への愛着は並々ならない。憶良はもとより家族への愛、農民(弱者)への愛を詠い、病苦を詠った社会派・生活派の歌人であるが、片や「狭野のをとめ」 は夫への恋情を爆発させた情熱の歌人であり、信綱は、狭野娘子の「君が行く」の歌について、「相聞歌の少なからぬ集中、一きわ高く築かれた情炎の記念塔である」と激賞している。その二人が連れだって語りながらやって来る、それを信綱がこちらでにこにこ笑いながら待ち構えている、「おや、二人は知り合いだったのかな?」なんて考えながら、というのは、実に素敵な幻想ではある。
中臣宅守が流された先は、越前武生の味真野(あじまの)という地であったことが、次の狭野娘子の歌からわかる。
味真野に宿れる君が帰り来む時の迎へを何時とか待たむ
その味真野に、現在は万葉館を中心に「味真野苑」という公園が整備されていて、二人の歌碑が、池のほとりに向き合う形で建てられている。歌碑は万葉仮名で刻まれていて、よみは別に立て札に記されている。写真は、狭野娘子の歌碑と立て札である。また、万葉館の展示から、狭野娘子の言う、焼き滅ぼしてしまいたい「道の長手」の地図を挙げた。
(短歌鑑賞:森谷佳子)