長くとも千年へがたき人の世ぞ憂忘れていざくまむ君
佐佐木信綱『思草』
新元号が「令和」と発表されて、にわかに注目された万葉集の大伴旅人の「梅花の宴」。このコーナーでも、「梅花の宴」を取り上げたことがあるが、それは旅人と共に筑紫歌壇の中心人物であった憶良にちなんだ信綱の歌を紹介したときだった。信綱は憶良に特に親愛の情を抱いていて、憶良と共に「梅花の宴」に参列したかった、というような歌も詠んでいたのである。
大伴旅人には、「梅花の宴」よりも有名な歌群がある。「酒を讃むる歌十三首」である。信綱が32歳のときに刊行した第一歌集『思草』に、酒について詠まれた九首の歌があるが、それは旅人の「酒を讃むる歌」に触発されてできたのではないかと思う。掲出歌はその中の一首であるが、意味は、「長くても千年は経ることが難しい人の世であるよ、心配事を忘れてさあ酌み交わそうではないか、君よ」くらいか。信綱が千年単位で人の世を考えていたのがすごい。人の一生は百年にも満たぬというのに。
またこの歌群の中の別の一首は、「信綱かるた」にも採られている。
天地のあるじとなるも何かせむいかでまさらむ此のゑひ心地
この世の中の主となっても何になろう、この酔い心地の方がよほど勝るであろうよ、というほどの意味。共に、旅人の酒の歌の世界に信綱が入り込んだのではないか、と思われるような歌である。旅人の歌を何首か挙げる。
験(しるし)なき物を思はずは一杯(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし
値(あたひ)なき宝といふとも一杯の濁れる酒に豈に勝らめや
生まるれば遂にも死ぬるものにあれば今生なる間は楽しくをあらな
一首目は、思い悩んでいるより酒を飲む方がましだ、二首目は、どんな宝より一杯の濁り酒の方がましだ、というのである。三首目は、「酒」という語は詠み込まれていないが、他の歌に共通する刹那主義、快楽主義のような旅人の人生観が表れている。奈良時代には仏教にからんで庶民に禁酒令が出たこともあり(主に僧侶が対象だったとも)、それに対する風諭も含まれているのではないか。山上憶良の「貧窮問答歌」に、貧者の立場で詠った「糟湯酒(かすゆざけ)うちすすろひて」という一節があるが、「糟湯酒」とは最も低級な酒で、酒粕を湯で溶いたものらしいが、庶民も厳しい生活の中で嗜むことがあったようだ。それを禁じることへのあてつけでもあったかもしれない。六十歳を過ぎての大宰府赴任、そして愛妻の死が重なれば、酒を飲まずにいられぬ心境でもあったか。
信綱は酒は嗜んだが、酒好きだったという話を聞かない。仕事に没頭するあまり、酒を飲む時間を惜しんだという話を聞いたことがある。掲出歌、また「信綱かるた」の歌にも、旅人の歌と共通する人生観が詠まれているように思われる。若き信綱が、旅人の厭世的、快楽主義的な酒の歌に惹かれたのかもしれない。(短歌鑑賞:森谷佳子)
※写真は、菅楯彦画「大伴旅人讃酒」ひなや福寿堂提供。