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今月の短歌 令和2年1月『盲人歌集』

ふと思ふ我が名書けずになりてより幾月ならむ文字のかきたし
とこやみの夜半にめざめて我が名など指もて書けり盲(めし)ひし吾は 

  一等兵 西塔高記  佐佐木信綱著『盲人歌集』より

 昨年11月30日の信綱顕彰歌会で、佐佐木頼綱氏が「『戦盲』にまつわる人と作品」という題で講演された。その中で紹介された元兵士の歌である。「戦盲」とは、辞典によれば「戦傷が原因で失明すること。また、その人」とあり、信綱はそうした人々に作歌の指導をして歌集を作っていた。その歌集の一つ、昭和18年4月に刊行された『盲人歌集』を読んだ作曲家の越谷達之助が感動し、その中から十首を選んで曲を付けた。昭和19年のことだが、その曲は長く埋もれていて、昭和52年になって日の目をみたという。その中の二首を、顕彰歌会の会場で、頼綱夫人のオペラ歌手薫子さんが歌ってくださった。それが掲出歌である。
 一首目は、視力を失って自分の名も書けないようになってから幾月がたっただろうか、文字が書きたい、とふと思った。二首目は、盲人となった自分は、永遠の闇の中で夜半にめざめて、自分の名などを指で書いた、というのである。目が見えなくなっても「我が名」を書きたいと欲し、闇に閉ざされながらも、指で自分の名を書いたと詠む。人というものの生きる証は、文字を書くということにあるのではないかと思う。そしてまず書く文字は自分の名であるのだろう。人間の生の根源的なものがそこにあるように思える。その意味で「戦盲歌」の象徴的な表現であるようにも思う。
 『作歌八十二年』の昭和13年9月の項に、信綱は「臨時東京第一陸軍病院に、伊藤嘉夫君と共に隔週作歌指導し、万葉集を講じた」そして「これは百回以上つづいた。その間に傷病兵諸君の真情のこもった力強い作品をあつめて、伊藤君と合編の傷痍軍人聖戦歌集、及び、御楯、失明軍人歌集戦盲及び心眼を刊行した」と書く。そして自作の四首の歌を載せている、その中の一首。
  みとりめに手ひかれ歩みく戦盲のおも朗(ほがら)かに曇れる色なし
 看護婦に手を引かれて歩いてくる失明した兵士の表情は朗らかで曇っている様子はない、というほどの意味。信綱らしい前向きな歌である。
筆者の脳裏には、信綱が27歳の4月、竹柏会第一回大会で、高らかに詠みあげた一首が浮かぶ。
  願はくはわれ春風に身をなして憂ある人の門を訪はばや
 傷痍軍人に対する作歌の指導や講義こそは、若き信綱が志した理想の実践の一つではなかっただろうか。この講義が、6年間、100回以上も、休まず開かれた所以であろう。(短歌鑑賞:森谷佳子)