とこしへにさむる期(ご)あらぬゆめがたり今のうつつの人を泣かしむ
佐佐木信綱『瀬ノ音』
建礼門院も建礼門院右京大夫も平安末期の悲運の女性であった。
建礼門院は、平清盛の娘徳子で、高倉天皇の中宮として入内し、安徳天皇を生む。壇ノ浦の戦いで、安徳天皇は海に沈み、彼女も海に身を投じたが、敵に熊手ですくい上げられ、生き残った身を大原に隠棲し、平家の人々の菩提を弔って暮らした。
建礼門院右京大夫は、その徳子に仕えて、徳子の甥である若き平家の公達平資盛と恋に落ち、資盛もまた壇ノ浦の藻屑となった。彼女が残した歌集が『建礼門院右京大夫集』である。
信綱の門下には名だたる女流歌人が多いが、信綱は歴史上の女流歌人にも多く目を向けていたように思う。『作歌八十二年』の昭和13年4月の項に、「下関にて赤間宮に参拝、…いわゆる七盛の墓のうち特に右京大夫のために資盛の墓前にぬかずき」と記されている。建礼門院右京大夫のために、他の墓ではなく彼女の恋人であった資盛の墓前に額ずいたという。右京大夫に並々ならぬ思い入れがあったとわかる。
また、日本古典全書に『中古三女歌人集』という一冊があり、信綱が校註をしている。そこに取り上げられているのは、「建礼門院右京大夫集」の他「式子内親王集」と「俊成卿女集」である。二人は、新古今時代の名だたる女流歌人であるが、その歌集の解説は数ページで終わっているのに、建礼門院右京大夫集には31ページを費やしている。
さて、昭和15年に刊行された歌集『瀬ノ音』の中には「建礼門院右京大夫集」と題する長い詞書を持つ歌群があり、それには「平安末期のもののあはれに一生を託してそが生涯を筆にうつしし右京大夫の集」とあり、「女歌人としても知らるること少なかりし右京大夫の為にうたへる歌」と結んで、七首の歌が載せられている。その最後の歌が掲出歌である。永久に覚めるときのない夢のような右京と資盛の恋物語が、今の世を生きる人々を泣かせるのだ、というほどの意味であろうか。この歌には、右京大夫が大原の寂光院に隠棲する建礼門院を訪ねた時に詠んだ次の歌が揺曳しているように思える。
今や夢昔や夢と迷はれていかに思へどうつつとぞなき
今が夢なのか昔が夢なのかと迷われて、どう考えても現実とは思えない。建礼門院の昔の栄華と変わり果てた今の寂れた暮らしのどちらが夢でどちらが現実なのかと迷い、どうしても眼前に見ていることが現実とは思われないというのであるが、資盛との恋が二重写しにされているようにも思われる。
なお、この稿を書き上げたあと、昨年末に上梓された、信綱の新村出博士への書簡集『佐新書簡』に、1923年2月に書かれた手紙の冒頭に「右京大夫は自分の大すきなる女歌人に候」と書かれているのを見つけて、信綱の肉声に触れたような気がした。(短歌鑑賞:森谷佳子)