五月雨にからかさ借りて本町の朝の市見る旅のうた人
佐佐木信綱『思草』
『作歌八十二年』の明治33年、信綱29歳の条に、五月に「信濃より越後に赴い」たことが書いてある。碓氷峠、軽井沢、御代田から別所、そして川中島の古戦場から善光寺を経て新潟への旅である。
掲出歌は新潟での詠で、「本町」とは、新潟市に江戸時代からある町名であるという。いったいこの新潟というところは、江戸時代は日本海側の屈指の湊町として北前船が寄港して栄え、町も運河沿いに縦横に道が通じていたらしい。本町というのはその中心だったのだろう。明治の初めに日本列島を縦断して長野から新潟、北海道までも探検旅行をした英国人女性イザベラ・バードが、『日本紀行』の中に新潟の町のことを詳しく書き記している。その運河に沿った市街にはさまざまな店が立ち並び、イザベラの興味を惹いた。ある通りには床屋ばかりが並び、ある通りにはかつら、まげ、入れ毛、女性のかもじの店ばかり、ある通りにはあらゆる種類のかんざしを売る店、また下駄を扱う店、傘を扱う店、漆器店、仏具店などと、細かく書き記している。さらに綿打ち屋、鋳掛屋、薬草屋、両替商、たばこ刻み屋等々、筆者もそんな通りを歩いて店を覗いてみたいと思ってしまう。
それが1878年の新潟であった。信綱が訪れたのは、明治33年、西暦1900年であるから、まだその面影が残っていたであろう。掲出歌では、信綱は、「五月雨」の中を「からかさ」(唐傘、和傘のこと)を借りて、その本町の朝市を見て歩いたという。自分を客観化して「旅のうた人」と詠んでいる。
さて、その後に面白い話が出て来る。(『作歌八十二年』)新潟市古町に鍋茶屋という江戸時代からのすっぽん料理の店が今もあるのだが、そこでの宴会に招かれた信綱に、舞妓が扇をひらいて「去年お出での紅葉先生にも書いていただきましたから」と言って揮毫を所望した。信綱は「紅葉山人は達筆、自分は悪筆で」と断るが、傍らにいた新潟新聞の記者が「この舞妓は水上屋のおたひというて新潟一でありますから」というので、書いた。その歌は、
うたひめの君が名四方に流れなむ恋の湊の水上にして
信綱は、その歌の説明として「一句に『たひ』をよみいれ、四句は西鶴の文に『新潟は恋の湊』とあったのをとっさに思い出したのである」と書いている。一句の「うたひめ」の中に舞妓の名「たひ」を隠し入れ、さらに四句には西鶴の文の中の言葉を入れ込んだというのである。さすがである。意味は、うたひめ(実際は舞妓であるが)のあなたの評判が、四方に流れて行くでしょう、恋の湊と言われる新潟の町の川のほとりから、くらいか。こういうふうに所望されてその場ですぐ詠むという芸当を昔の歌人はよくしたのである。この時の扇は新潟のどこかに今も残っているであろうか。
なお、大正元年刊行の『新月』に、さりげなく入っている次の歌は、このときのことを詠んだものだろうと思う。
(短歌鑑賞:森谷佳子)
春の夜を歌の筆とる越の国一(いち)のをとめが舞の扇に