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今月の短歌 9月 「信綱より新村出への書簡にある歌」

友をおもふ/友ははろけし/窓あくれは/高槻かうれに/月の/しづかなる

新村出宛佐佐木信綱書簡『佐新書簡』より

 

 『佐新書簡』の、目録番号219、昭和19年9月5日の消印のある手紙の冒頭に、この歌が6行の散らし書きで書かれている。いわゆる挨拶歌である。「友」とは、新村出のことであり、信綱と新村は、30代から晩年に至るまで半世紀以上の交流があり、頻繁に手紙のやり取りをしていた学問の友でもあり、心の友でもあった。
 「窓あくれは」は、窓を開ければ、「高槻かうれ」は、高槻(欅の大木)の梢、の意味である。一首の意味は、あなたを思い出しているが、あなたは遥か遠くにいる。窓を開けると、欅の大木の梢のあたりに月が静かに出ている、くらいか。当時、新村は京都在住であった。空の月を見上げながら、きっと今頃は京都であなたも同じ月を見上げているであろうか、とでも言いたげである。心憎い歌である。
 この書簡集の序文で幸綱氏が、信綱が「長生きすると友人がいなくなって困ります。今はもう友人は新村さんぐらいしかいなくなりました」と言っていたと書いていられる。信綱は80代の半ばぐらいだったという。掲出歌の書かれた封書が出された昭和19年9月は、信綱は73歳であった。その当時は京都に行くのに一日かかったのであった。これより前、大正12年の書簡には、こんなことが書かれている。

 

東京と京都と一日のへたゝりあるが残念に候 大丈夫安全の飛行機が出来て 夫人曰くどちらへ 主人曰く一寸夕飯前に夷川の新村さんへ行ます お風呂は帰ってからに といふぐあひになるとよいがと存候

 

 「夫人」と「主人」の会話が絶妙である。夕飯前に京都へ出かけ、お風呂の前に帰ってくるなどと夢のようなことを書いている。茶目っ気たっぷりな文章である。ちなみに信綱は子どものころ、船に乗って暴風雨に遭って怖い思いをした経験から、大洋を航することに臆病になり、海外旅行をあきらめたというが、「大丈夫安全な飛行機」というところに、その臆病さがちょっと表れているように思う。さて、掲出の挨拶歌に続く手紙の文は次のようである。

 

旧七月十四夜十五夜共に実によき月にて 夕方よりながめ居つゝ御近からは(ば) 御たつね申し此比(このころ)のむねにとゝこほり居候事ともゝ御聞願ひたくと存候事に候(カッコ内は森谷注)

 

 もし近くにいたならば、あなたを訪ねて胸中に滞っていることを語り合いたい、というのである。しんみりと優しい文面である。

(短歌鑑賞:森谷佳子)

 

写真は『佐新書簡』グラビアより転載させていただいた。熱海駅にて、右端が新村出、中央が信綱である。