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今月の短歌 7月「三枝昂之の見た信綱」

呼びかけし心を今に受け止める 茂吉、柴舟、信綱、空穂

三枝昂之『遅速あり』

 今月は、信綱を詠み込んだ短歌を掲げた。2020年7月号「心の花」の「信綱の十二ケ月」にヒントをいただた。三枝昂之の歌集『遅速あり』は、2019年4月に刊行され、2020年6月に釈超空賞を受けた。掲出歌は、その四章「地上の人」の9首目に置かれた歌であるが、その1首目は、「平成三十年、日本歌人クラブは創立七十年となる」と題した次の歌である。

行きがかりのえにしはありて月ごとの五反田通いも十年となる

 「五反田」には日本歌人クラブの事務局があり、三枝は平成30年の時点で、十年間歌人クラブの役員、会長として五反田に通ったのである。掲出歌には「創立への発起人は一八三名」という詞書があり、日本歌人クラブの創立に183人の歌人が発起人として名を連ねた、その中に「茂吉、柴舟、信綱、空穂」の名があったのだ。
 日本歌人クラブとは、ホームページによると、日本最大の歌人団体で、第二次大戦終了後まもない1948年発足し、183人の発起人のほか、近藤芳美・佐藤佐太郎・宮柊二ら中堅歌人が参加した。その創立70周年に当たって、会長の任にあった三枝の思いが掲出歌であろう。「茂吉、柴舟、信綱、空穂」らが呼びかけた心を、今私は受け止めている、という意味である。なお、日本歌人クラブのホームページでは、発起人として、茂吉を筆頭に、土屋文明・釈迢空・尾上柴舟・佐佐木信綱・窪田空穂、土岐善麿・前田夕暮と続くが、そのうち三枝が掲出歌に四人を挙げたのは興味深いことである。
 三枝の平成17年刊行の『昭和短歌の精神史』には、信綱に触れた部分が多い。太平洋戦争の時代、歌人たちはこぞって戦争の歌を詠んだが、その中で信綱の、昭和16年12月8日の、日米開戦の日に読売新聞に顔写真入りで載った「元寇の後六百六十年大いなる国難来る国難は来る」という歌、敗戦の当日8月15日に中日新聞に載った「昭和二十年八月十五日此の日永久(とは)に日本臣民(みたみ)の胸に永遠(とこしへ)に」などの歌を紹介しているが、いずれも当日の直前に新聞社から依頼され、断り切れずに詠んでいる。信綱らしい。三枝は他の歌人の歌も挙げながら、信綱の歌を評価している。ちなみに、昭和19年の時点で「短歌は国民の戦意持続に寄与するところ大だった」と三枝は書く。戦後、斎藤茂吉は戦争協力者呼ばわりされたとき、歌人のほとんどが皆戦争協力者じゃないか、ということを言っている。                               (三枝、同書)
 戦後、俳句や短歌のような短詩型では、現代の複雑な心情などの描写は無理だという言説が出たとき、信綱は「自分は社会が複雑になればなるほど、短詩型の文学は必要を増すと考える」と述べた、と書かれている。そのことを詠んだ『遅速あり』中の一首。

複雑な世にこそ歌の要は増す 信綱大人(うし)の断言ぞよき

 最後に、三枝が「心憎いほどみごとな短歌論、幸福論である」とする啄木の言葉を引用する。
 人は歌の形は小さくて不便だといふが、おれは小さいから却って便利だと思ってゐる。(略)一生に二度とは帰って来ないいのちの一秒だ。おれはその一秒がいとしい。たゞ逃がしてやりたくない。それを現すには、形が小さくて、手間暇のいらない歌が一番便利なのだ。実際便利だからね。歌という詩形を持ってるといふことは、我々日本人の少ししか持たない幸福のうちの一つだよ。

(短歌鑑賞:森谷佳子)