最新情報

今月の短歌 11月「まりが野に遊びし童」

まりが野に遊びし童今し斯(か)く翁さびて来つ野の草は知るや

佐佐木信綱 折本『鈴鹿行』より


 前回に引き続き、昭和25年10月の鈴鹿行の際に詠まれた歌である。石薬師小学校で父弘綱の60年記念の碑前祭に参列したあと、小学校の講堂で講演し、その後、鞠が野に遊んで詠んだ歌で意味は、鞠が野に遊んだ幼い子供が今このように年寄になって戻ってきたのを、野の草はわかるだろうか。「翁さぶ」とは、老人らしくなる、という意味で、見た目がすっかり老人のようになってしまった、ということであり、野の草を引き合いに出して自分の変わりようを言い、幼時を懐かしみ、来し方に思いを馳せている。
 当時の鞠が野とは、現在のそれよりは広い範囲を指していたようだ。旧東海道沿いに信綱の生家があるが、当時そこから西の方を見ると、鈴鹿の山並みまで見通せて、人家は殆どなく、秋には一面薄の原となった。その広い野を指したと思われる。即ち、信綱の幼時の思い出によく出て来る裏の茶畑、桐畑から見える景色がそうであった。次の歌は、上二首は同じ『鈴鹿行』に、三首目は歌集『鶯』に掲載されている。


   鈴鹿嶺をはろかに望む裏畑は茶ばたけの廻(まはり)に桐の木がありし

   よわ虫の泣虫の子は日の暮を桐の木のもとに泣きてゐたりし

   夕されば近江境の山みつつ桐畑の隅によく泣きゐしか


 幼い日の信綱の姿を髣髴とさせる。信綱は父に英才教育を授けられ、近所の子どもたちとも遊ばない寂しい泣虫の子どもであったか。『作歌八十二年』の五歳の条に「近辺の出入の百姓で清十郎というじいさんが、ひまな時に来て、「坊(ぼん)さん、いきましょう」と、おぶったり、肩車にのせたりして、石薬師寺や山辺の御井、まりが野や甲斐川などにつれていってくれた」と書かれている。実は、この清十郎じいやが「家庭教師」役であったのだ。
 現在、植木の里として知られている鞠が野の鞠鹿野寺のほとりに、幸綱氏の揮毫になるこの歌の碑が建てられている。その隣には「夏は来ぬ」の碑もある。

短歌鑑賞 森谷佳子