悲しともいたましともことのはにつきぬ涙のやまぬ朝かも
新村出
信綱は昭和38年12月2日に、急性気管支肺炎のため91歳で亡くなった。掲出歌は「心の花」の信綱追悼号に載った新村の弔歌である。新村は、日記「愛老日録」の12月3日の条に、新聞紙上で信綱の死を知ったことを書き、「流涕とゞめあへず、一首即吟せし哀悼歌を電送す。」と記している。(佐佐木信綱研究10号より引用)掲出歌はその弔電挽歌である。
同じ日の朝日新聞に載った五島美代子の文章によれば、「先生はおみ足こそ不自由でも、未だにベッドの上に机をすえて日夜学問に、作歌に精進なされていた」という状態だったから、悲報は突然で、新村の驚きと悲しみは痛切であったろう。
信綱と新村の交友は長く、学究の友でもあり、心の友でもあった。58年間に1400余通の書簡が交わされた。そのうち信綱の発信した574通は翻字されて『佐新書簡』として刊行されている。それによると、信綱の新村宛の最後の書簡(葉書)の日付は、死の8日前、11月24日である。奇しくも同じ日に新村も信綱に葉書を出している。朝の新聞紙上で信綱の死を知った新村は信じられなかったことであろう。
弔歌は、ありふれた言葉の連なりのようであるが、その調子のやゝたどたどしいところまでも、新村の心の切なさ痛々しさが読む者の胸に迫る。「いたまし」とは信綱の死を受け止められない新村の心のありようそのままであろう。なお「ことのは(言の葉)」に「つきぬ」は、言い尽くせないの意で、そのまま尽きない「涙」にかかっていく流れである。
信綱と新村の書簡を通じた微笑ましい交流を、2020年9月のこの欄に書いているので、それも参照していただきたい。
(短歌鑑賞:森谷佳子)