秋の風町かどをまがる風呂敷の中に時うつぼんぼん時計
佐佐木信綱『豊旗雲』
昭和3年、信綱57歳の作である。風呂敷の中にぼんぼん時計を包んで町かどを曲がるのは誰だろうか。作者の信綱だろうか。ちょっと想像しにくい。その時計が、いきなりぼんぼんと鳴り出したらさぞびっくりしたことだろう。不思議な歌である。「秋の風」という言葉も意味ありげでもあり、そうでもない気もする。
「佐佐木信綱研究」第1号の企画「私の好きな信綱の一首」で、篠弘がこれを挙げている。その評を引用すると「風呂敷包みに掛け時計をかかえるのは、おそらく若い使用人の小僧であろう。素材としては珍しい。街角を曲がる瞬間に、ぼんぼん時計が鳴り出した瞬間に出会い、当人以上に作者が驚いた、はからざる滑稽味が溢れる」と。すると作者の信綱が町の時計屋で時計を購入し、それを時計屋の小僧に持たせて帰るときのことだろうか。あるいは、信綱がどこかの街角で見かけた光景を歌にしたのであろうか。
篠はさらに「こうした無内容の事実を捉えて、共に生きている者が驚き合い、慌てふたむく態が愉しい」と続ける。つまりこの歌から、作者と小僧の二人が驚き合う様子が愉しいというのだ。そして「あの寺山修司の歌よりも、虚を突かれた者の臨場感が如実にうかがわれる」と結ぶ。「あの寺山修二の歌」とは、次の歌であろう。
売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき
筆者もまさにその寺山の歌を連想して、この信綱の歌に目をとめたのであった。 こちらの歌は、掲出歌に比べて、作為があらわであるように感じる。少なくとも「無内容の事実」ではあるまい。「売りに行く柱時計」から、何らかの差し迫った状況を想像させる。「ふいに」が寺山にしては説明的である。「横抱きにして」は、その主人公の緊張感を持った姿を具体的に現出させる。「枯野ゆく」が不思議で、異常な感じを煽る。この歌はいやが上にも読む者の想像力を掻き立て、これでもかこれでもかと迫る。それに比して、掲出歌は、おそらくは作為はほとんどなく、ありのままを歌にしたのではないか。それを篠は「無内容の事実」という。そして、篠の言うように「虚を突かれた者の臨場感が如実にうかがわれる」のである。寺山の臨場感はまるで劇場で舞台を見ているようである。信綱の歌の主人公は市井の人、寺山の方は劇を演じている俳優のような感じがするのである。これは想像であるが、寺山は、信綱のこの歌を読んで、自分の歌を思いついたのではないだろうか、劇を作るように。
ちなみに写真、ミレーの「種まく人」の絵は、寺山の上記の歌を読むと忽ち筆者の頭に浮かぶ絵である。
短歌鑑賞:森谷佳子