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今月の短歌  11月「御井(みゐ)と処女(をとめ)の歌」

み井の水くむとつどへる処女らが丹(に)の頬(ほ)に匂ふ槻(つき)のもみぢ葉

佐佐木信綱『山と水と』

 歌集『山と水』に「病間四趣」と題する一群の歌がある。昭和24年4月、78歳の信綱は転倒して膝を痛め、7月末まで痛みに苦しむ。掲出歌は、その間に詠んだ「病間四趣」その一の「万葉風景」の1首目の歌である。病臥しながら、心に浮かんだ万葉の風景を詠んだものであろうか。
 「み井の水」と言えば、万葉集の次の歌が思い浮かぶ。「和銅五年(712)壬午夏四月、長田王を伊勢斎宮に遣しし時、山辺の御井にて作れる歌」という詞書があって、
山辺(やまのべ)の御井(みゐ)を見がてり神風の伊勢娘子(をとめ)どもあひ見つるかも  長田王
 掲出歌は、「み井」と「処女(をとめ)」が詠みこまれていることから、この万葉歌を念頭に置いて詠まれたたものではないかと思う。なお「をとめ」は万葉仮名では「處女」と書かれている。
 この「山辺の御井」の故地の一つに比定されるのが、鈴鹿市山辺町の雑木林にある湧水である。県道脇の「公家ケ坂」という石の道標から少し坂道を登った奥まった茂みの中にある湧水のほとりには、慶応年間に神戸藩主によって建てられた石碑と鈴鹿市が建てた説明板がある。碑文の作成にあたっては信綱の父弘綱もかかわったという。説明板には石碑に刻まれた内容の大意が記されているようだ。歌の詞書にあるように、長田王が奈良から伊勢斎宮へ行く途中に立ち寄ってこの歌を詠んだということ、さらに「赤人の硯水といって新年にこの泉水を汲んで京の都まで運んだという言い伝えや、山辺赤人の屋敷跡ともいわれ、多くの文人が訪れている」と書かれている。ただの「泉水」ではないようだ。その「泉水」は現在は荒れていて、「泉水」というより、湧水というべきだろう。
 長田王の歌の意味は、有名な山の辺の御井を見がてら(見に来たついでに)神風の吹く伊勢の娘 さんたちをも見ることが出来たよ、というほどであろうか。「神風」は伊勢の枕詞である。
 さて、信綱が6歳まで住んでいた鈴鹿市石薬師町の家からこの山辺町の湧水までは2キロほどであろうか、幼い信綱が守役であった清十郎爺に背負われてこの万葉の故地に行き、爺からその謂れを聞いたことは間違いないと思う。
 掲出の信綱の歌は、(山辺の)御井の水を汲もうと集っている少女たちの紅い頬のように照り輝く欅のもみじ葉よ、とでも訳せようか。少女たちの紅い頬と紅葉したもみじの紅さが互いに照り映えているということであろうか。「槻」とは欅の古名で「樹勢が盛んでしばしば大木になるためか、古来神聖視され、その樹下も聖域とみなされたらしい」と日本国語大辞典にある。信綱が好んで歌に詠み込んだ語であり、この歌にも神聖な趣を与えている。また、説明版にもあるように、「山辺の御井」は「御井」と呼ばれる特別な泉水であり「聖水」とも呼ばれたらしく、そのほとりに「槻」はふさわしい。「御井」の水は特別な目的で使われる神聖な水であり、それを汲む「をと め」とは、やはり特別な少女たちであったろうか。長田王の歌と重ねて掲出歌を読むと、どこか古代のミステリアスな雰囲気を醸した、「丹」に彩られたな美しい景色が見えてくる。

短歌鑑賞:森谷佳子