梅雨に過ぎて頻きふる今宵なり「テニヤンの末日」よみつつふけぬ
『佐佐木信綱 作歌八十二年』
『作歌 八十二年』の昭和二十四年、信綱七十八歳の六月の条に「折々の歌」として載っている。しかし、昭和二十六年刊の歌集『山と水と』には、初句が「五月雨に」とあり、この方が五音で調べとしては整っている。昭和三十四年刊の『作歌八十二年』で、なぜ「梅雨に」としたのか。信綱のメモにあった元の表現に戻したのであろうか。
「テニヤンの末日」は、テニヤン島での玉砕を若い軍医の目を通して描いた中山義秀の短編小説である。「テニヤン」は太平洋戦争の激戦地で、サイパンの南四キロにある島である。サイパン島の中継地であったが、主人公が島に赴任した時、防備の準備ができていないまま初めて米軍の急襲に遭う。その後、別の部隊に属していたかつての学友であった軍医が赴任し、テニアン島で奇しくも旧交を温める。二人は「読書と珈琲と音楽」を愛する当時一級の知識人であったから、基地の上官とは軋轢もあった。
基地は、迫りくる米軍の大艦隊の猛攻に対して抵抗するすべがない。司令部は自分たちだけ脱出しようとしたりする。度重なる爆撃で基地は廃墟同然になり、潜む場所も失い、皆ばらばらになり、主人公は暑熱と渇きの中で移動を続けるが、途中で友の戦死を知り呆然とする、というところで終わっている。
この小説が書かれたのは昭和二十三年で、二十四年に刊行されている。信綱が掲出歌を作ったのはその二十四年である。
体験をもとに書かれた戦争文学の代表作、大岡昇平の『野火』が発表されたのは昭和二十六年であるが、原民喜の『夏の花』は、昭和二十二年に発表されている。二十四年に刊行された「テニヤンの末日」は、戦後もっとも早い時期に刊行された戦争文学の一つであろう。信綱はこれらの小説を逸早く読んでいたに違いない。
歌の意味は、梅雨の降りしきる今宵、「テニヤンの末日」という小説を読みながら夜が更けてゆく、と事実だけを並べる。どんな思いが信綱の心に去来していただろうか。彼には、太平洋戦争に対するいろいろな思いがあったであろう。掲出歌の後には次の歌が載っている。
よみをへて「末日」を思ひ今を思ひ憂いは深し雨の音やまず
小説を読み終えての感慨である。「末日」に描かれた極限の人間の心理状況、凄惨な戦場の場面、それを思い、そして戦争が終わり、「平和」になった今を思い、憂いは深く、降り続く梅雨の音は止まない。梅雨の音は「憂い」と一体であっただろう。
筆者も「テニヤンの末日」を読んで、今の世界の状況を思い、まさに憂いは深まるばかりである。小説の冒頭には、生還した主人公がこう回想している。「サイパン、テニヤンの陥落から丁度五年目になる(中略)人間の凄まじい体験や恐ろしい記憶も同じようにして時日とともに遠ざかり薄れてゆく」。小説を読んだ信綱も同じように感じたであろうし、薄れさせてはいけないと思ったであろう。
小説で、爆撃がまだ激しくない頃、若い二人の軍医は将来を語り合った。「人類は今度こそ戦争に懲りて、永久の平和を講ずるようになるであろう。そのためには漸次国際的な世界国家の成立を考え、その理想にむかって進むようになるであろう。ぜひそうなくてはならぬ、そうなってほしいというのが二人の一致した念願だった」。しかし、世界はそうならなかった。原爆がが投下された後、幣原首相は、被爆した日本こそ率先して軍備を放棄し、世界の戦争廃絶を進めなくてはならないと考え、平和憲法を構想し、百年後に戦争が廃絶されることを望んだが、その百年後が目の前である今、ロシアのウクライナ侵攻は収まる気配もない。
しかし、「テニヤンの末日」のような小説を読むと、私たちは、八十年前の戦後のように、平和への気持ちを新たにすることができる。信綱の歌の意味は、常に戦争の事実を記憶にとどめ、心に持ち続けて平和を希求しなくてはならない、ということだと思うのは深読みしすぎであろうか。
短歌鑑賞:森谷佳子