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今月の短歌

新しき家ゐに我を見出だしし移転(わたまし)の夜の清き月かな

佐佐木信綱『常盤木』

 

明治45年の7月に、信綱は神田小川町の家が手狭になって、本郷西片町の家に引っ越した。信綱41歳の時で、家族は9人になっていた。そして昭和19年に熱海に移るまでの30年余り、信綱はこの家に住んだ。この西片町というところは、東大から近く、多くの学者や文士が住んだところである。

明治27年には、樋口一葉が何度目かの転居の後、この西片町に引っ越して来て、その家で『たけくらべ』などの名作を書き、明治29年11月に25歳で亡くなっている。信綱は一葉と同年の生まれで、若い時に交流があり、一葉没後、「心の花」で特集を組んだりもしている。一葉には、同じく下町の生まれである夏目漱石の兄との縁談もあったという。

その漱石は、明治39年に西片町に引っ越してきた。小説『三四郎』には、この地名がたびたび出て来る。信綱と漱石は文通したり、お互いの家を行き来したりしている。漱石が信綱の家を訪れて、午前から夜までずっと語り合ったこともあったという。

こんな逸話を信綱は書き留めている。( )内は、森谷の註。

 

市ヶ谷の大塚(大塚保治博士)家を(漱石と)二人で訪問した折、自動車をおりて狭い道を歩き歩き、夏目さんは度々時計を出して見られる。どうしたわけかと思ってゐるうち、ふと立ち止まって、ポケットから散薬の包を出し、仰向いてそのまま服まれた。驚いて問ふと、「薬を飲む時間を、厳格に守らなければならないので、途上でも水なしでのみつけてゐる」と言はれた。(佐佐木信綱『明治大正昭和の人々』)

 

当時、漱石の胃潰瘍は相当悪化していて、前年には、いわゆる「修善寺の大患」で死線をさまよった。結局、漱石はその数年後、胃潰瘍による大吐血で死去する。

漱石は、西方町には9カ月しか住まなかった。その漱石が転居した後の家に魯迅が入居したという。また、二葉亭四迷が、そのちょっと前に、漱石の家と目と鼻の先に住んでいたという。この頃、この地の住人は、この狭い地域に住み、人力車で互いに行き来したりしていたのだろう。それを想像すると興味深い。

その西片町の信綱の家は、それまでの家より広くて庭もあった。掲出歌は、やっと引っ越しの慌ただしさが一段落して、ほっと落ち着いて、新しい家の中にいる自分自身を見出した、という歌だ。もう日が暮れていて、空には清々しい月が出ていて、その月の光を眺めて感慨に浸っている信綱の姿が目に見えるようだ。

さて、現在の文京区西片町の石坂という坂の途中に、文京区が設置した標識板があって、それに「西片町の景」と題した信綱の歌が載っているという。写真がそれである。その歌は、全集では

交番の上にさしおほふ桜さけり子供らは遊ぶおまはりさんと(『椎の木』)

となっていて、標識板の歌とは少々異同がある。歌集の名の「椎の木」は、この西片町の家の隣家との境に椎の木が何本か立っていて、それを歌集の名にしたという。(短歌鑑賞:森谷佳子)