わが歌をあつめしふみの奥がきは君が書ゝんといひけん物を
佐佐木信綱 (『逍遥遺稿集』より)
「君」とは、慶応3年伊予の国の生まれで、信綱より5歳年上の、中野逍遥(本名重太郎)のことである。彼は、東京大学漢文科に学び、同窓に夏目漱石、正岡子規らがいた。子規とは同郷でもある。明治27年、同科の第一回の卒業生となり、引き続いて研究科に残ったが、同年秋、28歳の若さで、急性肺炎で没した。彼の詩風は、制約の多い漢詩に恋愛感情を自由奔放に歌いこんで、島崎藤村、吉井勇らにも影響を与えたという。
掲出歌は、その逍遥の死に際しての、信綱の追悼歌である。逍遥の没後に編纂された『逍遥遺稿集』に「親友中野重太郎君を思いひ出でゝよめる歌ども」と題して、12首の歌が収録されているが、その終わりから二つ目の歌である。歌意は、私の歌を集めた歌集の奥書は、君が書こうと言っていたのに(それも果たさず、君は亡くなってしまった)。信綱の最初の歌集『思草』が出るのはその10年後のことである。
逍遥と信綱は、どのようにして出会ったのかはわからないが、逍遥を「狂骨」、信綱を「残月」と互いに呼び合って、漢詩と短歌で、互いの片恋を詠みあったという。信綱はこの年上の「心友」の下宿を、夜ともなるとほぼ一日おきに訪ねて、人生や恋を論じ、詩歌を作ったという。その場に、下宿先の夫人や逍遥の従妹が加わって、茶々を入れることもあったという。信綱にとっては実に楽しい時間であったろう。
『逍遥遺稿』外編に収められている二人が唱和した作品に、「ともにみし沖のしま邊の磯馴松秋風いかにさむくふくらん」という信綱の歌がある。この歌は、その後、森鴎外の「めざまし草」に発表され、信綱の第一歌集『思草』に、
共に見し沖の島べの磯馴松あき風いかに寒く吹くらむ
として、収録されている。この「磯馴松」とは、『逍遥遺稿』の文脈からして一人の女性を指す、というか、信綱の片恋の相手を意味することになる。それが誰かはわからないが、房州北条市の女性であるという。ちなみに、信綱の自伝『作歌八十二年』の21歳の項には、「晩春の頃、安房北条在の小原氏に招かれてゆき、北条の歌会に列なり、沖の島、鷹の島に遊び、奈古から帰った」とある。その折に出会った女性かもしれない。あるいは歌に、「共に見」た、とあるから、実は逍遥と信綱の共通の友人であったかもしれないし、はたまた逍遥の趣味が創り出した架空の恋人に、信綱が乗っただけかもしれない。しかし、信綱も隅に置けない存在であったことは確かだから、恋する女性の一人や二人いても不思議はない。後に信綱の妻となる雪子の父は、その頃、房州つまり千葉県の知事であったから、その房州での歌会で信綱は雪子に会い、雪子は信綱の門に入る。「磯馴松」は雪子であったかもしれない。
『逍遥遺稿集』の信綱の追悼歌から、もう三首挙げる。さらにそれに続く長歌も挙げておく。
友とせむ人はすくなき世のなかに惜き君にもわかれつるかな
ゆく水のすみだの川のあきのつき誰とか見べき君なしにして
もろともにたてし心を語りあいて契りし事は夢にやありけむ
〇
今戸のさとの秋の夜半、かたぶく月をながめつゝ、心しづかにかたらひし、四たりの人よいまいづら、
さかゆく春を誇るあり、さびしき秋をかこつあり、君はつめたき世を去て、我はつれなき世にぞ泣く、
みそらの月は秋ごとに、同じひかりにてらせれど、心しづかにかたらひて、ともにながめむ君はなし、
信綱にとって、逍遥はかけがえのない友であった。互いに将来の勇躍を期していた友であった。逍遥の夭折は、信綱にとって大きな衝撃であり、痛手であっただろう。(短歌鑑賞:森谷佳子)