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今月の短歌 6月

ほほゑめばはつかに見ゆる片ゑくぼトマトが赤き白がねの皿

佐佐木信綱『新月』

 

『新月』は、大正元年、信綱が41歳のときに刊行した歌集である。珍しいトマトが詠みこまれているが、トマトは、江戸時代には伝わったものの、鑑賞用で「唐柿」と呼ばれていたとか。食用に供されたのは、明治以降であったが、一般に広く食べられるようになったのは、昭和時代だと言われる。昭和初期の北原白秋の歌に「赤茄子(トマト)」と詠みこまれている。だから信綱がこの歌を詠んだ頃は、トマトはまだ一般にはあまり食されていなかったのではないだろうか。文学者のご多分に漏れず、信綱も新しがり屋だったというから、逸早くトマトに着目して詠みこんだのであろう。ちなみに、斎藤茂吉に「赤いトマト」という随筆があって、明治の中頃に山形でトマトを育てて食べたことがあり、「さてその美麗なトマトを食べようとしますと変な味でちっともおいしくありません。また料理の方法も分かりませんので、これは見掛け倒しといふものだ、紅毛人のものは口に合はんなどと云って、折角のトマトを皆捨ててしまいました。」とある、ということを「佐佐木信綱研究第8号」で読んだ。

さて、意味は? 上の句の「はつかに」は「わずかに」に同じであるから、微笑んだときにわずかに片側の頬にえくぼができるというのである。少女を思わせる描写である。下の句は「白がね」、つまり銀の皿に赤いトマトが載っているというのだ。勝手な想像をすれば、皿に乗った赤いトマトの、その蔕のところの窪んでいるのを見て、それが少女のえくぼに見えたのかもしれない。その少女、あるいは女性が誰であったかは知る由もない。もう一首、トマトを詠んだ歌を挙げる。

 

よき友あり夜(よ)の宴(うたげ)たのし紅ゐの大きなるトマト千曲川の鮠(はや)  (『山と水と』)

こちらは昭和25年5月、作者79歳、信濃に旅したときの作。戸倉の笹屋ホテルに土地の友人たちが訪ねてきて歓迎の宴となったようだ。ちなみに、信綱は旅館よりホテル派だった。

上二句のゆったりした字余りの穏やかな流れのあと、三句以下は具体的な二つの景物が新鮮だ。紅のトマトに銀色の鮠。掲出歌と同じく、トマトの「赤」と「銀」の取り合わせである。「大きなるトマト」と詠まれているから、丸のままのトマトであるように思われ、友人がお土産に鮠といっしょに持参したもののようにも思える。それともホテルの料理だろうか。皿に盛り合わせたら美しいだろう。どんな料理であったのか。鮠はよく泥を吐かせてから揚げるといいという。揚げた鮠のマリネのトマト添えなどどうだろうか。美しい景物に彩られた和やかな春宵の宴の歌である。(短歌鑑賞:森谷佳子)