最新情報

今月の短歌 7月

筆とりゐし歌稿をおきて物がたり又もみ國の運命(さだめ)にうつる

友黙し我ももだして丘の上の三もと老樟の夕ばへ仰ぐ

坂路下る友の姿を見まもりぬ又逢はむ日はいつの日ならむ

佐佐木信綱『佐佐木信綱 作歌八十二年』

 

 この三首は、終戦間近の昭和20年7月21日、門人の下村海南が熱海西山の信綱の住居を訪れたときに詠まれたものである。この時、海南は「歌集の原稿を携えて」来訪したという。

 海南は当時の鈴木貫太郎内閣に於いて国務相兼情報局総裁という要職にあり、一カ月後の終戦に際しての玉音放送を実現に導いたのはこの人であるという。『作歌八十二年』には、海南はその後、著書「『終戦記』に俊成忠度に擬して、西山歌の別という文詞を掲げた」とある。

 俊成忠度とは『平家物語』に「忠度の都落ち」として有名な話で、都落ちする平忠度が途中で歌の師である俊成の屋敷に引き返し、持参した自らの歌を書き留めた巻物を俊成に託し、今後勅撰集が選ばれるときには一首でも入れていただければ生涯の面目である、と言い置いて去ってゆく、という話である。その状況と、海南が絶望的な時局の中で、自らの歌稿を携えて師の信綱を訪ねるという場面が重なる。忠度は一の谷の戦いに果て、再び俊成にまみえることはなかった。海南下村宏も死を覚悟して、師信綱のもとを訪れたのであろうか。

 戦後『終戦記』を補完する形で書かれた『終戦秘史』の中の「熱海西山歌の別」から引用する。

 

 大正四年春、竹柏園の歌の道が私の前に開かれてより、園主佐佐木信綱博士指導のもとに早くも三十三年の歳月が流れている。

 恩師が熱海西山立石なる凌寒荘に疎開されてより、心ならずもご無沙汰をしていたが、空襲ますますはげしく、今日あるを知って明日を知るあたわざる時局下のあわただしき中に、身辺ますます多事なるとともに、心境の静けさを保ちうる歌悦の恵みに感謝しつつ、今さらに先生をしのぶこと日にますます切なるものがある。(中略)眼をつぶっていると、ふと都落ちの時に師俊成のもとに別れをつげ、歌草をたくしたる平忠度、その歌の中から千載集に読人不知(よみひとしらず)としてのこされし、

 ささなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな

の故事が頭に浮かんできた。

 今日の熱海行きは恩師への今生の別れとなることか、わが歌草の中にとりいでて残さるべきものありやなしやなど、くさぐさの空想にふけるうち、いつのまにか熱海へつく。(講談社学術文庫より)

 

 歌に親しんだ人らしく、当時の文にしてはひらがなが多く、やわらかな文体である。海南は「体はゴルフで鍛える、心は歌で養ふ」と常々語っていたという(『明治大正昭和の人々』)が、戦時下の厳しい状況のなかで「心境の静けさを保ちうる歌悦の恵みに感謝しつつ」とあるのが、印象深い。

 掲出の三首をその文脈の中で読むと、第一首、海南の訪問を受けた信綱は、筆を執っていた歌稿を置いて話し始めるが、その話はすぐに存亡の危機を迎えている国の運命の話に移ってしまう。「又も」で、それが何度も繰り返されて、二人の頭から「み國の運命」が離れないのがわかる。二首目、そして、海南は黙り込み、信綱も黙ってしまう。目を上げて丘の上の三本の老樟の夕映えを見上げる。その「夕映え」は凋落する日本の予兆に見えたかもしれない。三首目、信綱のもとを辞し、坂路を下ってゆく友海南の姿をしばらく見守る。又逢う日はいつだろうか。

 写真は、串本町潮岬の本州最南端の広々とした芝生に、海を背にして立つ海南の胸像と歌碑である。ただし、4年ほど前に「潮風の休憩所」なる建物が立って、胸像と歌碑はその前に移設されてしまったので、背景に海は見えない。歌碑の歌は「春寒み野飼いの牛も見えなくに潮の岬は雨けむらへり」

(短歌鑑賞:森谷佳子)