神戸にゆく途上の甲斐川に、今は木田橋かかりをれど、はやくは橋なかりき
生家(さと)へゆくと弱かりし母が我をせおひ徒渉(かちわたり)せしか此の甲斐川を
信綱『山と水と』
この歌は、信綱が昭和25年10月鈴鹿市制定8年の市賓として招かれたときになった歌紀行「鈴鹿行」にあるものから、歌集『山と水と』に採られたものである。「鈴鹿行」には、79歳の信綱が父弘綱六十年祭碑前祭をはじめ、鈴鹿市文化協会招宴、に出るなど杉本龍造市長や土地の名士とも会い、若松の伊坂邸、四日市河原田の熊澤邸をも訪ね、神戸高校・四日市高校では講演。神戸岡本家墓参、四日市小杉の佐々木家中祖定政墓参、小向神社の橘守部歌碑など、鈴鹿市から四日市や三重郡にわたる広大な地域をまさに駆け抜けるかの感があった。自らの齢から、期するものがあったのであろうか。信綱にとって、はからずもこれが最後の鈴鹿行になったのである。
掲出の歌は、忙しく移動する車中で幼時をしのんで詠んだのであろう。鈴鹿川八十瀬の流れや、川に架けられた立派な橋をみて思わず詠出したのであろう。「甲斐川」は鈴鹿川のことである。石薬師村とは対岸の甲斐村の川であったから、「甲斐」という地名にちなんでそう呼ばれていた。古来から近くの地名により、鈴鹿川は他にも土地土地で「関川」「高岡川」とも呼ばれている。当時の石薬師の人々にとっては、鈴鹿川は「鈴鹿川」でなく「甲斐川」であった。「鈴鹿川」になるのは大正・昭和になってからである。弘綱は幼い信綱を連れて「甲斐川」で投網を用いて鮎捕りなどをして遊んだのである。
歌では、神戸の生家へ行くには必ず甲斐川を渡らねばならない。弱かった母が私を背負い素足になって徒歩(かちわたり)でこの甲斐川を越えてくれたのだ。冬であれば凍るように冷たい水であったろうし、夏であれば水量多く流される危険もあったであろうに、と母への感謝をこめた気持ちがそのまま歌になったのである。
母子の生家(さと)帰りのコースについて考えてみる。弘綱一家は明治10年に松阪へ転居するので、母子の生家帰りは明治5年から10年までの間であった。その頃では、石薬師から神戸へ行くには二つのコースがあった。一つは石薬師から東へ、山辺の御井を通って木田橋を渡る。(現在利用している県道は昭和17年頃できたもので、当時はなかった。)もう一つは石薬師から東海道を南へ行き、一里塚から東海道に別れて定五郎橋のあたりから甲斐川を渡る。
現在の鈴鹿川には、上流の亀山市関町木崎の勧進橋から河口の四日市市磯津町の磯津橋までに30橋が架橋されているが、明治の初めでは伊勢別街道の勧進橋と伊勢街道の高岡橋の二橋しか架橋されていなかった。定五郎橋も木田橋もなかったのである。わずかに木田橋のあたりには、江戸時代から「木田の渡り所」というのがあって粗末な板橋が架けられていた。(参照:『かわの百年』鈴鹿市立河曲小学校創立百周年記念 平成4年刊)
木田橋。江戸時代から明治にかけて簡単な板橋のかかっていた「木田の渡り所」跡の現況を点線で示す
現定五郎橋の下流200メートルの所に、仮の板橋を前川定五郎が架けたのは明治29年になってからであって、明治初年の頃は「かちわたり」が普通であった。木田の渡り所を通れば「かちわたり」せずに済んだのであるが、そこから石薬師へ抜ける道があまり整備されていなかったようだ。石薬師から神戸へ行くには、石薬師の一里塚から東海道をはなれ、神戸道という田圃の中の道を通り、甲斐川を「かちわたり」するのが一般的であったようだ。里程は二つのコースともほとんど変わりがなく1里(4キロメートル)ほどである。
「かちわたり」の推定される跡を点線で示す。定五郎橋下流を現在の定五郎橋上から見る
前川定五郎が鈴鹿川の中州を利用し、川に杭を打ち込み、板を並べた幅約30センチメートル、約60メートルの板橋を完成(第1回目)させたが、1ヶ月後、大雨で流失した。その後、定五郎は明治30年頃、自費と寄付とで2回目の橋を完成させた。幅約1.2メートル、長さ122メートルの土橋で馬車も通れたという。
2回目の定五郎橋 前川定五郎資料室提供
弘綱の日記「弘綱年譜」によれば、弘綱は妻光(子)の生家帰りを「光神戸行く 光神戸帰る」と、きわめて簡単に記している。勿論、「木田から行く」、「甲斐から帰る」、などとは記していない。光子の生家帰りは、早くて1日で往復するのから、2日、3日、5日、それ以上と長いのもある。かなり頻繁に生家帰りはあったようで、日記では33回を数える。信綱が母に背負われて「かちわたり」したのは0歳から4歳とすれば、その内の20回余と見る。
たらちねに負はれて越えしかひ川の水の音かも今わが聞くは 『山と水と』
この歌も「鈴鹿行」で詠まれて「山と水と」に採られたものである。掲出歌とともに信綱の口に自然にのぼったものと思われる。「たらちね」は「垂乳根」。乳を垂らす女、母の意。
(短歌解説 北川英昭)