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今月の短歌 1月

道とへばふるさと人はねもころなり光太夫の碑に案内(あない)せむといふ

佐佐木信綱『鶯』

 

 『佐佐木信綱 作歌八十二年』によれば、信綱は昭和3年、57歳の1月3日から7日間、関西を歴訪している。恭仁京跡や琵琶湖畔の坂本、名張を経て、伊勢若松に立ち寄った。そのとき、この歌を詠んだ。
 この歌は「信綱かるた」の24番目に収められている。「ねもころ」は「懇ろ」で、親切で心が籠っていること。鈴鹿市若松にある大黒屋光太夫の碑への道を尋ねたところ、土地の人がそこまで案内しようと言うのである。
  大黒屋光太夫は、昭和43年に刊行された井上靖の小説『おろしや国酔夢譚』で有名になったが、江戸後期の伊勢国白子の廻船の船頭である。1782年、千石船神昌丸で16人の乗組員と共に白子港を出発した光太夫らは、江戸へ向かう途中で嵐に遭った。7ヶ月余の漂流の後にアリョーシャン列島に漂着し、想像を絶する苦難を乗り越えて、カムチャツカ半島からイルクーツクに辿り着き、帰国を願い出るために、さらに光太夫はラクスマンと二人でペテルブルクまで行き、遂にエカテリーナ二世に謁見し、帰国の許可を得て、ラクスマン(息子)と共に根室に至る。漂着から10年が経っていた。17人いた乗組員は3人になっていたが、そのうちの小市は根室で病死し、江戸に帰着したのは光太夫と磯吉の二人であった。
 大正3年、信綱とも親交があった新村出が、学者として初めて光太夫を紹介し、大正7年には地元に「開国曙光の碑」が新村出撰文により建てられ、顕彰の機運が盛り上がった。この碑は人の背丈を超える大きなもので、光太夫らの事績が詳しく刻まれていた。信綱が若松を訪れたのは、それから10年ほど経ったときで、おそらく信綱は友人である新村出を通じて光太夫のことは詳しく知っていただろう。

 今回、筆者は初めて若松の「大黒屋光太夫記念館」を訪れて、町内の2か所の「曙光碑」と、光太夫らが消息を絶って2年目に建てられた墓碑「供養碑」を巡ったが、江戸時代は廻船の拠点であり、漁師町でもあるこの地は、曲がりくねった路地が入り組んでいて、確かに初めて訪れたものは、道を問わなければわからない。だから土地の人が案内しようと言ったのもうべなるかな、である。信綱は、自らのふるさとに近いこの土地の人々の親切なことを嬉しく思ったであろうし、この地に親友新村出の撰文した碑を見て、感慨深かったであろう。

 この地は台風の通り道にあたっていて、信綱が見た初代の「開国曙光碑」は台風による倒壊・折損などに遭い、その現存する上部1,5mほどが、平成17年に開館した「大黒屋光太夫記念館」前に設置されている。2基目の碑もまた台風の被害を受け、現在は若松市民センターの敷地内に、3基目の碑が設置されていて、碑文のほぼ全部を読むことが出来る。

(短歌鑑賞:森谷佳子)