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今月の短歌 3月

身を守る心起こりし其日より此かなしびは我に来たりし

 片山廣子『翡翠(かわせみ)』

 3月19日は片山廣子の命日である。廣子は、明治11年、東京麻布に外交官の父の長女として生まれ、東洋英和女学校に学び、家柄、美貌、才能を兼ね備えた女性だった。昭和32年に79歳で亡くなった時は、家は零落し、夫にも息子にも弟妹にも先立たれ、下高井戸の田舎に女中一人とのわび住まいであった。しかし、彼女はその晩年になって、真の心の自由を得たのだろうと私は思う。
廣子は18歳で信綱の門に入り、「心の花」が創刊されたときから歌や文章を発表し注目された。信綱もその才能を高く評価していた。その後アイルランド文学の翻訳でも、森鴎外や芥川龍之介らから高い評価を受けた。しかし、彼女の私生活は、必ずしも幸福であったようには見えない。
彼女は、名家の貴婦人としての矜持を持ち続け、慎み深い近づきがたい女性という印象を与えていたようだ。前川佐美雄は、母親ほどの年齢の廣子に対して「何となく近寄りがたい、怖い人、と言っては語弊があるけれども、それに似た思ひをしてゐた」と、「心の花」の廣子の追悼号に書いている。「たしかに片山さんはスタイリストであった。(中略)よい意味でのスタイリストとして最高の人であり、又、唯一無二の人であった」「高い教養と知性を持ち、すぐれた文学的才能に恵まれながら、それをその如く遺憾なきまでに発揮せられなかったのは、畢竟はこのスタイリストであった為である」と述べる。スタイリストとは、上流の夫人としての自負心を持ち、誇り高く、自らの内部に他人が踏み込むことを許さないという廣子の生き方を言うのであろう。それゆえに、彼女本来の自由奔放さが発揮されず、その文学的才能が遺憾なきまでに発揮されなかったと言うのである。
掲出歌は、その廣子の生き方を表した歌であるように思う。「身を守る心」つまり、保身の心、それは強い自負心の裏返しである。「其日」とはいつのことかわからないが、自意識が芽生えたとき、あるいは自らの文学的才能を自覚した時であろうか、「其時」から廣子は、その後の歌に表現されるような「かなしび」、すなわち天真爛漫に振舞うことが出来ない、言いたいことを思うさま言えないという憂いを心に抱くようになったのである。それは今風に言うならば、自意識過剰というのかもしれない。
第一歌集『翡翠』には、次の歌もある。
  ちひさなる我がほこりをば捨てかねていふべきこともいはざりしかな
意味は、小さな自分の誇りを捨てることが出来ずに、(そのために)言いたいことも言わなかったのだった。「ちひさなる我がほこり」とは「身を守る心」であり、下句に廣子の「かなしび」が詠われている。また次の歌もある。
  心狂ひ君をおもひし其日すら我が身一つをつひに捨て得ず
心が狂うほど人を恋したその日でさえ「ちひさなる我がほこり」ゆえに、わが身を投げ出すことができなかった、というのである。恋を成就させられなかった日の詠であろう。
一方で次のような歌もある。
  ゆるしがたき罪はありとも善人の千万人にかへじとぞおもふ
この歌には、強い自負心、自己愛が表現されている。自分にどんな許しがたい罪があったとしても、自分はかけがえのない存在であって、ありふれた善人とは代わりたくない、というのであろう。この歌について、柳原白蓮が感想を書いている。「全くだと存じました。こんな強い歌は、つまり弱い女故で御座いませう。」と。弱い女ゆえに、自身を強く持たなければ、世の中に立っていけない、ということであろうか。同じような意味合いの歌で、次の歌もある。
  あきはててうとみはつれど人の世の何にも代へん我と思はず
すっかり飽きて嫌になってしまった自分だけれど、この世の何かと代ろうとは思わない。廣子の、これらの歌は、また何と素直に内心を流露していることだろう。

廣子は片山貞次郎と結婚した当時は、駒込千駄木町のかつて森鴎外が住み、夏目漱石も住んで『吾輩は猫である』を書いた家に住んだが、27歳の時大森に移り住み、そこに20年余り住んだ。その間に『翡翠』が刊行された。その地は、後に馬込文士村と呼ばれた。写真は、大森駅前にある「馬込文士村」のレリーフである。この大森の家から昭和19年に武蔵野(下高井戸)の小さな家に疎開したのであるが、再び大森へはもどれなかったのである。 (次回に続く)(短歌鑑賞:森谷佳子)