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今月の短歌 4月

あけがたの雨ふる庭を見てゐたり遠くに人の死ぬともしらず

                         (片山廣子の書簡より)

 

 廣子が大蔵省官僚の片山貞次郎と結婚することになった時、信綱は彼女の才能を惜しんで片山邸に出向き、結婚後も文学活動をさせるように頼んだという。しかしその後廣子は思う存分文学活動をしたとは思われない。廣子が42歳の時、貞次郎は病没した。その死の直後、廣子が結婚指輪を池に投げ捨てたという逸話がある。

 こんな歌がある。

    折々は知らぬ旅人ひとつやどにあるかと思ふつまとわれかな  (『翡翠』より)

 二人の覚めた結婚生活を冷徹に詠ったものか。それとも単に二人が一つ家で別々に過ごしているときがあるというだけのことか。次の歌はどう読むべきだろうか。

    女なれば夫も我が子もことごとく身を飾るべき珠と思ひぬ  (同)

 

 夫の死の4年後、廣子は、軽井沢で芥川龍之介に会う。息子と娘を伴い、毎夏、軽井沢の「つるや」に滞在していた。芥川とはもちろん旧知の間柄であったが、廣子が寡婦となったこと、避暑地の軽井沢という環境、芥川の心理状態もあって(と筆者は勝手に推測する)、二人は急速に接近した。芥川の最後の恋人と、後世喧伝されることになる。

 廣子は芥川に、おつきあいをしたい、と手紙を書き送っている。その積極的なのに驚かされる。彼女のスタイリストとしての哲学とは別に、短歌だけでなく、彼女の書くものには彼女の生来の奔放さが出ているように思う。書くものについては、本来の自分を裏切ることができなかったのだ。

 芥川と廣子はその後、東京でも逢瀬を重ねたが、廣子の上流婦人としての一種とりすましたシニカルな態度は、芥川にとって魅力的であり刺激的ではあっても、彼の心を癒すことはなかっただろう。彼は廣子とのつきあいが始まった3年後の7月24日に自殺する。その前、6月末に芥川は廣子の家を訪ねていた。

 廣子は芥川の自殺を新聞記事によって知った。どれほどの衝撃であっただろうか。掲出歌は、その2週間後、山川柳子宛ての手紙の末尾に書かれた歌である。芥川が自殺した明け方、自分は何も知らず雨の降る庭を見ていた、というしんと静まり返ったような歌である。(続く)(短歌鑑賞:森谷佳子)

 写真は、大森の廣子の邸宅付近に建てられている説明板である。