しのべばわが眼前(まなかひ)にうかびくる雲中語のつどひ観潮楼歌会
佐佐木信綱『佐佐木信綱 作歌八十二年』
『作歌八十二年』の昭和29年、信綱83歳の条に「七月 観潮楼の跡に永井荷風君執筆の鷗外大人の詩碑が建った。除幕式に参列して追悼歌をささげた」とあり、三首の歌が挙げられている。その二首目の歌が掲出歌である。なお、歌集『秋の声』には、
しのべば、今まなかひにうかびくる観潮楼歌会雲中語のつどひ
として載っている。
「雲中語のつどひ」「観潮楼歌会」は、森鷗外が主催した文芸批評の会及び、歌会である。鷗外の千駄木にあった自宅は、二階から品川沖が眺められたので「観潮楼」と名付けられたという。「雲中語」は、明治29年発刊の鷗外主宰の雑誌「めざまし草」の文芸批評欄の名で、幸田露伴、落合直文、斎藤緑雨、尾崎紅葉ら当時一流の文学者を「観潮楼」に集めて合評が行われた。信綱は、員外としてたびたび招かれ、執筆もし、また短歌も載せている。信綱25歳のときである。その後、明治40年3月から「観潮楼歌会」が開催され、その参加者は始め、主人森鴎外の他、与謝野鉄幹、伊藤左千夫、それに信綱であったが、後に北原白秋、石川啄木、斎藤茂吉らも加わったという。そのいきさつについて、信綱が『作歌八十二年』の明治40年の項に書いている。
(会が始まって)後数ヶ月たった会の終る時に与謝野君が、来月は僕のところへくる若い者をつれて来ますからとの詞に、自分も木下君や新井君などをというと、与謝野君は、いやこの会の事は僕に任せてくれたまえと強くいわれた。翌月から、木下杢太郎、吉井勇、北原白秋、石川啄木をつれてこられ、伊藤君は斎藤茂吉、古泉千樫君などを伴いこられて、歌の競詠会のようになった。自分は不服であったが、与謝野君と喧嘩をするのもと思い、鷗外さんに対して毎月出席した。はじめは雲中語のつどいのような森さんの考えであったかと思われたが、観潮楼歌会として二年ほどつづいて、歌壇にもその名の残る会となったのであった。
与謝野鉄幹寛の、信綱を牽制するかのような発言は、信綱には不愉快であっただろう。鉄幹は、その頃、「新詩社」を起こし、『明星』を創刊、晶子の活躍もあって、詩歌の革新に向けて、飛ぶ鳥を落とす勢いであった。信綱は「不服であったが」、主催者鷗外との信頼関係があったので、その後も毎月会に参加したというのであろう。結果的に、「観潮楼歌会」は新進歌人たちの交流の場となったのである。
歌意は、あのころを思い出すと、雲中語の集いや観潮楼歌会のようすがありありと私の眼前に浮かんでくることだ、くらいか。観潮楼歌会が開かれたのは、信綱36歳の時であった。苦々しい思いをしたことも含めて、半世紀前の思い出は、懐かしく愛おしく信綱の脳裏によみがえったことであろう。
なお、掲出歌の説明にある「鷗外大人の詩碑」とは、昭和29年、鷗外の33回忌に建立された「沙羅の木」の詩碑である。また、昭和37年の鷗外生誕100年には、信綱の筆による「観潮楼址」の碑が建てられた。信綱の署名は「源信綱九十一」と書かれている。(短歌鑑賞:森谷佳子)