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今月の短歌 8月

 

茅草(ちぐさ)かる山人どちがものがたり征野(せいや)の子らの上なるらしき

佐佐木信綱『山と水と』

 

 題詞に「山人を案内にて、ここかしこをめぐる」とあり、5首の歌が載っている。それらの歌より前には「信濃ここかしこ」という見出しがあり、次のような説明がある。

 

 十六年の盛夏、例年のごと軽井沢万平ホテルに在り。「万葉集の研究」の校正に専念して十数日を過しぬ。たまたま一日を、小海線により、延山が原に遊ぶ。…

 

 昭和16年、太平洋戦争の勃発する年、信綱は70歳であったが、8月、軽井沢でライフワークの万葉集の研究に専念していた。そんなある日、「小海線に乗り、延山が原に遊ぶ」とあるのは、現在は野辺山と表記するが、日本で一番高所の鉄道の駅として知られる小海線に乗り、野辺山駅で降りて、土地の人の案内で散策したのであろう。この「信濃ここかしこ」には、月見草を詠んだ美しい歌が何首かある。また白樺や萩や桔梗、山霧を詠んだ歌の数々があり、そして山人の営みのようすを詠ったのが掲出歌である。ちなみに、歌集のそれに続く見出し「白椿」には、戦死等で亡くなった知人や門人を追悼する歌が続く。
 「茅草」の「茅」は、カヤとも読み、スゲ・ススキなどの総称である。信綱は、「延山が原」に、土地の人々が、「茅」を刈っている光景を見る。おそらく茅葺の屋根を葺くのに用いるためであろう。彼らが仕事の手を止めて話をしている。その声が風に乗ってかすかに聞こえてくるのであろうか。それは征野、つまり出征して戦地にいる息子たちの身の上を案ずる話であるらしい、というのである。
 信綱は、国策に沿った勇まし気な軍歌や戦意を高揚させるような歌も数多く作っている。同じ年、昭和16年には「元寇の後六百六十年大いなる国難来る国難は来る」という歌もある。しかし、このような歌は、どこか気負って自身を鼓舞して詠んでいるような不自由さを感じるのは私だけであろうか。掲出歌のような、戦地に子らを送り出した普通の人々の気持ちに寄り添ったやさしい歌の方が、信綱らしい歌であるように思う。(短歌鑑賞:森谷佳子)