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今月の短歌 10月

 

熊野御幸あふぎまつれる時すでにかげ高かりしこれの梛(なぎ)かも

佐佐木信綱『山と水と』

 

 信綱は、昭和15年10月に熊野の速玉神社に詣でた。この年は、神武天皇即位から2600年の節目にあたる年とされ、国を挙げて記念行事が行われた。その一環として、神武天皇東征の聖蹟遺構を讃える顕彰碑が、神武上陸の地であるとされる熊野を始め、各地に建てられた。『山と水と』には「新宮、速玉神社に竹柏の大樹あり」と詞書があって、この歌が載せられている。
 「熊野御幸」とは、平安末期から鎌倉期にかけて、歴代の上皇が熊野詣に通ったことをいう。その回数は驚くべき数字で、白河上皇は9回、鳥羽上皇は17回、後白河上皇は33回、後鳥羽上皇は28回に及ぶ。後鳥羽上皇の4回目の御幸に藤原定家が供奉して、散々な目に遭ったことが定家の日記『明月記』に書かれている。それによれば建仁元年10月5日に出発して、同27日に帰着したとあるから22日間に及ぶ旅である。これを後鳥羽上皇は23年間に28回も敢行したのである。これほどに上皇たちを熱中させた参詣の旅は、信仰のためばかりではなく、都では見られぬ海や山の珍しく美しい風光に出会える刺激的な物見遊山の旅でもあったのだろう。ちなみに、定家が散々な目に遭ったというのは、下級貴族たる彼の主な役目は上皇の一行に先行して各王子社に手向けをしたり、宿泊や食事の手配をすることであったから、体調不良をかこちつつ、何とか激務をこなしていたが、その上に、歌好きで、催し好きの後鳥羽上皇が途中の王子社で歌会を頻繁に(実に9回も)催すので、その度に定家に下命があり、講義をしたり歌を詠んだりと、休む暇もなかったのである。それでも都に帰着した途端に彼の体調不良はよくなった。ちなみに、この熊野御幸から帰ってすぐに、後鳥羽上皇は「新古今和歌集」編纂の院宣を下した。
 それから、ほぼ700年後、信綱はそんな上皇たちの姿を思い浮かべながら、速玉大社の社頭の大樹、梛(なぎ)の木を見上げ、熊野御幸の途上の上皇たちがこの木を仰ぎ見たときも、この木はすでに高く茂っていたことだろうなあ、と詠んだのである。この梛の木は、現在、神木として周囲を柵に囲まれてあり、樹齢千年と書かれているから、上皇たちが熊野に通ったときにも、すでに大樹としてそこにあったのだ。
 ちなみに、梛の木は中国では竹柏と書き、信綱の父、弘綱は竹柏園(なぎぞの)と号したので、現在も「心の花」の結社名は竹柏会とされている。(短歌鑑賞:森谷佳子)