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今月の短歌 11月

遠上つ代み船よせましし日を思ふ潮の八百会に丹雲にほへり

神のいくさ御船ゆおりて踏ましけむ真熊野の浜の此の白真砂

 

 10月に引き続き、昭和15年、紀元二千六百年と言われた年に、信綱が熊野を訪れた時の歌である。

 神武天皇が上陸した地は佐野あたりであると信綱が考えていたことは、信綱が佐野でこの二首を詠んでいることからわかる。現在の佐野の近く、三輪崎に「神武東征上陸地」という大きな看板を見ることが出来る。

 一首目の歌の意味は、遠い上代に、神武天皇が御船を寄せて上陸された日を思って眺めると、潮流の集まるところに赤い雲が輝いている、くらいであろうか。この雲は朝焼けか夕焼けの雲であったろうか。二首目は、神武天皇が東征なさるために御船から降りてお踏みになったであろうこの熊野の浜のまっ白な砂よ、か。「丹雲」の丹と、「白真砂」の白が印象的である。

 「真熊野の浜」の「白真砂」とはどこであろうか。熊野市の観光パンフレットには熊野古道中辺路の高野坂から眺め下ろした浜辺が絶景として写真に載っている。この浜は王子が浜といって、佐野よりは北寄りの浜辺である。観光案内所で、神武が上陸したと伝えられる佐野あたりの浜辺はどこか、と聞いたところ、高野坂の登り口の御手洗海岸を教えてくれた。そこは、神武上陸の神話に似合う雄大な浜辺であった。ただ白砂ではなく、灰色の石がごろごろしている。信綱の「白真砂」は脚色だろうか。一首目の「丹雲にほへり」といい、二首目の「白真砂」といい、視覚的にあまりに美しい。あるいは、佐野から三輪﨑にかけての海岸は、現在は干拓造成されて新宮港となっていて、そのほとりに黒潮公園があり、浜辺はないが、信綱が訪れた当時はまだこのあたりに白浜があったのかもしれない。

 その佐野の地には、佐野王子の石碑と「神武天皇佐野顕彰碑」が海に向かって並んで建っている。顕彰碑の建てられた日付は「昭和十五年十一月」とあった。信綱が佐野を訪れたのは十月だから、この碑はまだ建ってはいなかったのだ。しかし工事中ではあったかもしれない。佐野のあたりの海岸は車道の下に見渡せたが、浜辺というような感じではなく、岩が目立つ荒磯であった。神武が軍を率いて上陸したのなら、こんな海岸が似合うとも思う。(短歌鑑賞:森谷佳子)