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今月の短歌 12月

元寇(げんこう)の後(のち)六百六十年大いなる国難来(きた)る国難は来(きた)

                         佐佐木信綱『黎明』

 

 この歌は、歌集『黎明』(昭和20年11月発行)のはじめの方に、「昭和十六年十二月作」という題詞とともに載っている。歌の後に次のような「追記」がある。

 

追記。十二月六日に読売新聞記者が来りて、近く重大なる発表あるべく、その日の新聞に載すべき歌をといふ。辞したれど聴かず、この歌と他に何首かをおくりしに、九日の朝刊に載せ、歌の前に大きなる白抜きの文字にて「国難来る国難は来る」と掲げありき。当時、相次ぐ捷報に、面ほてるここちせしが、今にしておもへば、国難のことばは、老歌人の杞憂にして已まざりしこと、嘆くにあまりあり。

 

 「重大なる発表」とは、真珠湾攻撃、すなわち米英への宣戦布告の他にはなく、読売新聞がそのことをどれだけ事前に知りえていたのかどうか、歴史に疎い筆者にはわからないが、何らかの情報を掴んでいたからこそ、信綱にそれにふさわしい歌をと頼んだのであろう。とすれば、信綱もそのことを知らされていたに違いない。そして、真珠湾攻撃の翌日の12月9日の朝刊に、「國難來る國難は來る」という白抜きの見出しとともにその何首かの歌が載ったという。そのときの信綱の心は高揚していたことだろう。その時点で戦争に負けるとは思ってもいなかったのではないだろうか。
 そして、戦後14年目、1959年に、88歳の信綱は、『作歌八十二年』の中で、昭和16年12月のくだりにこの歌を挙げ、「終戦の後おもえば、この国難来るのことばは、老歌人の杞憂にして已まなかったこと、嘆くにあまりある」と再び書くのである。この言葉は、信綱があたかも掲出歌によって敗戦を予感し、恐れていたかのように受け取れるが、しかしこの歌は、当時の人々にそう受け取られなかったことは明白である。国難という言葉は、辞書によれば「国家の存立にかかわる危難」であり、国民の危機意識を高めるために、戦時中はよく政府が用いた言葉であったようだ。つまり、この歌は、660年前の元寇にも匹敵するような、国の命運を左右する重大な時局に至った、という意味で、国民は一致団結して奮起すべしと、当時国民の戦意を大いに煽ったことは間違いがない。だからこそ、読売新聞はこの歌を掲げたのである。また、歌集『黎明』の掲出歌のすぐ前には「若人に示す」と題して、若者に国を背負って雄々しく進みゆけ、というような若者の奮起を促す歌が10首ほど載せられている。他にも、歌集には載せられていない、戦争に協力する数々の歌を詠んでいる。信綱は、皇室を中心に連綿と続いてきた和歌の継承者であり、研究者であるから、当時は大いなる「臣民」として、そのような歌(掲出歌も含めて)を詠むのが当たり前であったのだろう。
 しかし、戦後10年以上経って、『作歌八十二年』で信綱はあえて掲出歌を取り上げ、14年前に載せた追記とほぼ同じ内容の説明を付けた。それは何だか後付けの言い訳のように思えるのである。(短歌鑑賞:森谷佳子)