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今月の短歌 8月 「信綱の富士登山」

 

あらたまの年の緒ながく恋ひ恋ひしこれの頂にわが立ちにけり

佐佐木信綱『思草』

 

 信綱は、明治35年の8月に初めて富士登山をしている。31歳の時であった。この歌には、長い年月切望していた富士登山がやっとかない、その頂上に立ったときの喜びが率直に詠われている。「あらたまの」は年に懸かる枕詞、「年の緒」は年月の意味である。

 『ある老歌人の思ひ出』には、「旅ここかしこ」の項に「富士登山」と題して思い出が書かれている。要約すると、「いささ会」の同人であった、当時は大学生の上小澤、篠崎両君と吉田口から登った。強力二人を伴って、午後出立、四合目の室(山小屋)にその日は泊まった。翌日は五合目の「天地の境」を越え、樹林の中の石楠花を折り、瓶にさして強力に持たせ、二君に助けられ、強力に押されつつ八合目まで登って、そこの上小澤君の親類の室に泊まる。室の外で美しい月を眺めた。翌朝は雲海を昇るご来光を拝み、頂上に至り、野中氏の測候所に近い岩石の間に石楠花を供え、数分間瞑目して詠んだ歌を声高らかに歌い上げた、とある。『作歌八十二年』にも、この時のことは丁寧に書かれていて、その時に詠んだ短歌30首ほどが掲げられている。野中氏とは明治28年に富士山頂の剣ヶ峰に測候所を作り、妻千代子とともに冬季観測を初めて行った野中到のことである。信綱が富士登山したのは、その7年後になる。

 「泗楽 第23号」で北川英昭氏が、この直後に信綱が門人の甲斐在住の小尾保彰氏へ送った書簡を紹介していられる。そこには、「剣ヶ峰にては山の梺より殊更たをり登りし石楠花の花を岩の上にそなへ かの万葉集なるなまよみの 甲斐の国といへる長歌をあらん限りの声もて歌ひ上け さて自ら作りし短歌を三度となへて 天つ神にきこえ さて後頂上のこゝかしこを見巡り申し候」などと書かれていて、自作の歌は「天つ神」に捧げる歌であることがわかる。その歌は、

 

 いつよりか天の浮橋中絶えて人と神との遠ざかりけむ

 

 「天の浮橋」とは、古事記の神話中に出てくる神が天上から地上に降りるときの通路となる橋、あるいは梯(梯子、はしごのこと)であり、地上の一番高いところに至って、天を見上げて詠んだ歌にふさわしい。この歌の他にも、神を詠み込んだ富士登山の歌は多い。さて、その自作の歌を唱える前に「かの萬葉集なるなまよみの甲斐の国といへる長歌」を「あらん限りの声」で歌い上げたことが「泗楽」誌に書かれている。信綱の富士登山の肝であり、万葉学者たるの面目躍如たる場面である。その歌は高橋虫麻呂の歌で、以下の通りである。「なまよみの」は「甲斐」にかかる枕詞である。

 なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 富士の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上らず 燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず くすしくも います神かも せの海と 名付けてあるも その山の つつめる海ぞ 富士川と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日の本の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも

 この長歌によって、当時は富士山が活火山であったことが分かる。この歌に因んだ歌も信綱は詠んでいる。

 

 もゆる火のもえたつ上に天ぎらひみ雪ふりけむ神代しも思ふ

 

 また、この登山で筆者にとってとくに印象的なのは、石楠花の花である。『作歌八十二年』によれば、それは「目さめるような石南花の紅い花」であった。信綱が晩年熱海の西山で石楠花を愛したことは有名であるが、この富士登山の場面でも石楠花に出会い、石楠花に思いを託していたことが知らされる。

(短歌鑑賞:森谷佳子)