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今月の短歌11月 「中国旅行での一首」

江南の子弟八千今いづら滔々として江の水流る

佐佐木信綱『遊清吟藻』

 

 明治36年の11月から翌年の1月まで、南清を訪問して『遊清吟藻』という歌集を得た。信綱が32歳の時であった。その中から一首を挙げた。

 

 この歌を読んで、私が思い浮かべたのは、『史記』の項羽本紀の一節である。項羽と劉邦が鎬(しのぎ)を削ったのも長江流域の「南清」と呼ばれるあたりであったろうか。高校の漢文の教科書にもよく採られる項羽の最期の場面、敵に追われて烏江という長江の船着き場まで来たとき、待っていた船頭に、江を渡って江東に逃げるように勧められるが、そのときに項羽が言った言葉である。

 

「天の我を亡ぼすに、我何ぞ渡ることを為さん。且つ籍江東の子弟八千人と、江を渡りて西す。今一人の還るもの無し。縦(たと)ひ江東の父兄憐れみて我を王とすとも、我何の面目ありて之に見(まみ)えん」

 

 項羽は劉邦に追い詰められ、遂に自分の天命を悟るのである。「籍」は項羽の名で「私」と訳せばいい。渡江を勧める船頭に「昔、私は江東の若者八千人を率いて長江を渡って西に進軍したが、今一人も帰る者はいない。たとえ江東の者たちが憐れんで私を王にすると言ってくれても、何の面目があって彼らに会うことが出来ようか」と言い、馬を捨てて漢軍の中へ突撃して果てるのである。この「江東の子弟八千」を信綱は詠み込んだのだと思った。しかし、気づけば歌は「江南の子弟」となっていて、少し違っている。果たして、私の考えは見当違いであろうか。

 

 仮に、信綱の歌がこの『史記』にある上記の表現を踏まえているとするならば、項羽と劉邦の戦いという、中国史上の大きな出来事を歌に詠み込むことによって、今まさにその長江の畔の地に立って、壮大な歴史を俯瞰するような思いであったろう。信綱の眼前にする長江が、今と昔を繋いで滔々と流れ続けているという歌ではないだろうか。

(短歌鑑賞:森谷佳子)